酔雲庵

時は今‥‥石川五右衛門伝

井野酔雲





東からの風




 夢遊は配下を引き連れ、備中(びっちゅう)(岡山県西部)に向かった。

 お澪は小野屋に戻り、いつもの生活に戻った。我落多屋の藤兵衛と小野屋の与兵衛は、夢遊がいなくなった事を手を取り合って喜んだ。

 正月の十五日、信長は安土の馬場で盛大に爆竹(ばくちく)を鳴らして馬揃えを行なった。信長を初めとして馬廻(うままわり)衆や小姓(こしょう)衆がきらびやかに着飾って、自慢の馬を乗り回した。

 お澪は与兵衛を連れて見物に出掛けたが、夢遊がいないので、何となく面白くなかった。

 正月の末、信長の家来となった雑賀の孫一が宿敵の土橋若大夫を攻め殺したとの知らせが届き、信長は側近の野々村三十郎を検使として雑賀に送った。

 お澪は西の空を眺め、夢遊の無事ばかりを祈っていた。時には一人で鴬燕軒(おうえんけん)に行き、見事に咲き誇る梅の花を眺めたりもしたが、余計、寂しさがつのるばかりだった。しかし、二月になるとそれ所ではなくなって来た。

 武田勝頼(かつより)の妹婿の木曽義昌が信長に寝返った事から、関東の情勢が変わりつつあった。

 二月の三日、信長は武田家を滅ぼすための出陣命令を下した。同盟を結んでいる徳川家康に駿河口より、北条氏政に関東口より甲斐に攻め込む事を依頼し、飛騨口からは金森長近に攻め込ませた。十二日に岐阜城主である信長の長男、信忠が美濃と尾張の兵を引き連れて東に向かった。

 信長が出陣したのは三月の五日だった。坂本城の明智十兵衛も細川藤孝、筒井順慶らと信長に従って甲斐の国へと出陣した。

 お澪は信長の後を追うように岐阜に向かった。岐阜の小野屋で詳しい状況を聞くと木曽谷に向かった信長を追う事なく、尾張の熱田から船に乗って小田原へと向かった。

 三月十一日、武田勝頼は天目山麓に追い詰められ、自害して果て、甲斐の名門武田家は滅び去った。

 そんな事は知らず、夢遊は備中の国で暴れていた。毛利家と取り引きしている商人を片っ端から襲って財宝を盗み取り、高松城下では商人の蔵に溜め込んである米をすべて焼き払った。羽柴藤吉郎が姫路から大軍を率いてやって来ると、敵の城に夜襲を掛けて城攻めも手伝い、安土に帰って来たのは、桜の花も散ってしまった四月の初めだった。

 お澪が首を長くして待っているに違いないと土産を持って小野屋に行ったが、お澪はいなかった。

 与兵衛に聞くと、お澪は小田原に帰らなければならなくなったと言う。武田家が滅び、信長が上野(こうづけ)の国(群馬県)まで進出して来たため、北条家は信長と戦わなくてはならなくなった。お澪は今月から姫路の店に行く予定だったが、関東で戦が始まれば、もう、こっちには戻って来ないだろうと冷たい顔をして言った。

 気落ちした夢遊は我落多屋に帰らず、池田町の遊女屋に向かった。孫一と馬鹿騒ぎして以来だった。遊女たちに歓迎されて大騒ぎしたが、お澪を失った虚しさを癒す事はできなかった。夢遊は思い切って、拠点を小田原に移そうかと本気で考えた。しかし、今更、藤吉郎と別れて関東に行く決心は着かなかった。

 銀次とおときは相変わらず、ジュリアの行方を捜していた。

「日本人離れした顔付きのジュリアが見つからないはずはない、と安土を中心に近江(おうみ)の国中、捜し回りました。ようやく、ジュリアらしい娘が、去年の十月半ばに飯道山の門前にある花養院という寺にいた事が分かりました」と職人姿の銀次は言った。

 おときはすっかり、銀次のおかみさんに成り切って、台所で働いていた。

「花養院じゃと? おい、そいつは確かなのか?」

 夢遊は急に厳しい顔をして、銀次を睨んだ。

「お頭は花養院を御存じなんですか?」

「知っておる。孤児院をやってる尼寺じゃ」

「そうです。ジュリアも孤児院で子供たちの面倒を見ていたそうです。十日くらい、花養院にいたそうですが、突然、どこかに行ってしまったとの事です」

「なんてこった。ジュリアは多分、小田原じゃ」

 夢遊は歯を食いしばって、必死に怒りをこらえていた。

「小田原?」銀次にはわけが分からず、夢遊の顔を見ながら、次の言葉を待った。

「ジュリアをさらったのはお澪じゃ」と夢遊は言った。

「えっ、まさか‥‥‥小野屋の女将さんが」

 銀次は信じられないという顔をして、おときの方を見たが、おときは煮炊きに熱中していて、話を聞いてはいなかった。

「迂闊じゃった。花養院というのはな、小野屋の本拠地とも言える所なんじゃ。あそこにいたという事は、お澪の仕業に間違えねえ。そこから尼僧にでも化けて小田原に行ったんじゃろう」

「女将さんの仕業だったんですか‥‥‥でも、どうして、女将さんがそんな事をするんです? 抜け穴の事を知ってるんですか?」

「いや、その事は知らん。ただ、マリアが我落多屋に来た事は知っていた。変わった娘だと言うので、善次郎の事は教えたが、それ以外は言っておらん。ただ、風摩党の者が小野屋にいたとすれば、わしらの動きを知っていた可能性はある」

「でも、どうして、ジュリアを小田原に連れて行くんです?」

「そんな事、知るか!‥‥‥ジュリアからすべてを聞いて、風摩党が天主の黄金を盗む事を考えたのかもしれんな」

「そうなるとマリアもさらわれる可能性がありますよ」

「うむ。しかし、マリアの鍵はわしが預かってる。あの山にいるうちは心配あるめえ」

「あの女将さんがそんな事をするとは驚きですね」

「驚いたどころじゃねえわ。わしは裏切られたような気分じゃ。正月を共に過ごしたが、ジュリアの事など一言も言わん。まったく、何という女子(おなご)じゃ」

「どうします、小田原まで行きましょうか?」

「いかん。相手は風摩じゃ。殺されに行くようなもんじゃ」

「黄金は諦めるんですか?」

「今の状況では盗み出す事は不可能じゃ。たとえ、風摩でも難しいじゃろう。もし、風摩がやる気なら、お澪から話があるはずじゃ。そうなったら、わしにも意地がある。黄金すべてを風摩に渡すような事は絶対にせん」

 夢遊は銀次とおときを姫路に送った。姫路の我落多屋にある戦利品を堺まで運ぶように命じた。

 お澪に裏切られたと腹を立てた夢遊は、お澪と共に過ごした鴬燕軒に向かった。お澪との思い出の残る家を処分するつもりだった。特に、湯殿は壊してしまうつもりでいた。

 二人が最後の夜を過ごした時のままだと思っていたが、家の中は綺麗に片付けられていた。そして、文机の上にお澪の手紙が置いてあった。

 急に、お別れしなければなりません。わたし自身としては、ずっと、あなたのお側にいたいと思っております。けれど、小野屋の主人としてはそうはまいりません。いよいよ、信長様が関東に攻め込みました。わたしは小田原に帰らなくてはならなくなりました。もう二度と、あなたと会えないかもしれません。でも、あなたと共に過ごした安土の事は決して忘れないでしょう。短い間でしたが、ありがとうございました。

 ジュリアの事ですけど、小田原に預かっております。黙っていて、すみません。例の話、ジュリアから聞きました。でも、今はその時期ではありません。あなたを危険な目に会わせたくないので、小田原に連れて行きました。ジュリアの事はわたしに任せて下さい。もし、時期がまいりましたら、お返しいたします。あなたのいう『世直し』がうまく行く事を願っております。

 さようなら、澪

 夢遊はお澪の手紙を(ふところ)にしまうと、湯殿のある庭園に出た。

 牡丹の花が見事に咲き、蝶が舞い、小鳥がさえずりながら飛び回っていた。

 その夜、夢遊はお澪の事を思いながら、独りで酒を飲み、独りで風呂に入り、独りで眠った。いつの日か、お澪が戻って来る事を願い、鴬燕軒の処分をやめて、翌日、山の砦に向かった。

 正月の十五日から、新しい若者たちが砦に入り修行に励んでいるはずだった。十二日に備中に向かった夢遊はまだ、彼らに会っていない。どんな若者が入ったのか、頭として一応、目を通す必要があった。

 去年の修行者、男十八人と女八人は一年間の修行を終えて砦を出たが、まだ、一人前には扱われない。実戦において技を磨かなければ使いものにはならないので、今、備中の国で実地訓練をやっていた。

 山に行って驚いた。修行者が思ったよりも少なかった。男が十二人、女が六人しかいない。

「どうしたんじゃ? 毎年、男を二十人、女は十人入れろと言ってあるじゃろう」と夢遊は師範の彦左衛門を問い詰めた。

「いや、その予定じゃった。しかし、男八人と女四人は伊賀攻めで殺されちまったか、行方が分からなくなっちまったんじゃ。その後、補充するべき者を捜そうと思ったんじゃが、焦って捜してもロクな者が集まらんと思ってな、やめましたわ」

「そうか‥‥‥十二人も才能ある若者が殺されたのか。信長のクソったれが‥‥‥まあ、いいわ。ところで、マリアはどうじゃ?」

「はい。真面目に修行してます。結構、筋がいいとの事です」

「まだ、黄金の事を諦めんのか?」

「口には出さんが諦めてはおらんでしょう」

 夢遊はしばらく砦に滞在し、若い者たちを引き連れて、雪の積もる山の中を歩き回ったり、直接、武術の指導をしたりしていた。

 絵地図を眺めながら、小田原に進出する事も本気で考えていた。しかし、箱根の向こうにある小田原は遠かった。小田原に行くには伊勢に拠点を作って、船を持たなければならない。船といえば雑賀の孫一、奴から水夫(かこ)ごと船を譲ってもらおうかとも思った。

 その月の半ば、銀次が荷物を堺に運んだ事を知らせに来た。

「御苦労じゃったな。おときも一緒か?」

「いいえ、安土の家にいます」

「そうか、二、三日、ゆっくり休んでからでいいから、伊勢に行ってくれ」

「伊勢ですか?」と銀次は首を傾げた。

「おう。安濃津(あのうつ)(津市)に店を出すつもりじゃ。あそこは関東への玄関口じゃからな」

 成程というようにうなづき、「いよいよ、関東進出ですね?」と聞いた。

「信長の奴も関東に行ったからのう。奴には負けられんわ。港の近くで手頃な店を捜してくれ」

「今度は誰がやるんです?」

「まだ、決めてはおらんが、船も持つつもりじゃからな、堺の宗雪あたりを置くかもしれん。おめえも船に乗って関東に行くか?」

「面白そうですね」

「ついでに船の事も調べてくれ」

「分かりました」

 夢遊は勘八を連れて、銀次と共に山を下り、安土に寄ってから堺に向かった。

 信長が得意になって安土に凱旋(がいせん)して来たのは、夢遊が堺に行ってから六日後だった。

 堺からも天王寺屋宗及(そうぎゅう)納屋(なや)宗久(そうきゅう)、薩摩屋宗二などが戦勝祝いを述べるため安土に向かったが、夢遊は帰らなかった。信長が関東に出陣したせいで、お澪は小田原に帰ってしまった。逆恨みには違いないが、浮かれている信長の顔など見たくはなかった。

 それから三日後、銀次が血相を変えて、堺にやって来た。安濃津から休まず駈けて来たという。

 夢遊は我落多屋の客間の椅子に腰掛け、ボーッとしながら、南蛮渡りの葡萄(ぶどう)酒を独りで飲んでいた。

「どうした、そんな慌てて。信長が帰って来た事なら、もうとっくに知ってるぞ」

 銀次は荒い息をしながら、手を振った。

「そうじゃないんです。女将さんが、小野屋の女将さんが‥‥‥」

「ナニ、お澪がどうしたんじゃ?」

 夢遊は目の色を変えて、銀次の胸倉をつかんだ。

「女将さんがジュリアを連れて、小田原から安濃津に来たんです」

「お澪がジュリアを連れてか?」

「はい。今頃はもう安土に着いてると思います。おときが追って行きました」

「一体、どうした事じゃ?」

 夢遊は銀次を離すと壁に飾ってある南蛮絵をジッと見つめた。その絵には、南蛮人の若い娘が裾の広がった南蛮服を着て、笑っている姿が描いてあった。雰囲気が何となく、お澪に似ていた。

「分かりません」

 銀次は夢遊が飲んでいた葡萄酒の入ったビードロ(ガラス)の器を手に取って眺めた。

「二人だけだったのか?」

「侍が一緒にいました。かなり、腕の立ちそうな男です。それに、荷物持ちの従者が四人です。喉がカラカラで、コレいいですか?」

 夢遊はうなづくと、「何者じゃ?」と聞いた。

 銀次は葡萄酒を飲み干すと、「女将さんは太郎様と呼んでおりましたが」と言って、口を拭いた。

「太郎だけじゃ分からんわ。とにかく、安土に帰らなくてはのう」

 用があって出掛けている勘八の帰りも待たずに、夢遊は銀次と一緒に安土に向かった。

 安土に帰ると藤兵衛がソッケなく、「お早いお帰りで」と迎えた。

 新五が夢遊の袖を引っ張り、店の外に連れ出すと耳元で、「女将さんが、例の家で待ってます」と言った。

 夢遊はうなづいた。

「ジュリアを返すそうです」と新五は付け足した。

 夢遊は銀次を伊勢に帰らせ、新五を連れて鴬燕軒に向かった。

 ジュリアは台所にいた。一瞬、マリアかと間違えるくらい、よく似ていた。髪に紫色のリボンを結び、丈の短い単衣(ひとえ)を着て、イワナを焼いていた。

 ジュリアは夢遊の派手な姿を眺め、「アラ、あなたが石川五右衛門さんなのネ?」と大きな声で言った。

 夢遊はただ、うなづいた。

「へえ、そうなの。もっと怖い人かと思ってたけど、カッコいいし、優しそうなおじさんじゃない」とジュリアはウフッと笑った。

「女将さんはいるかい?」と新五は聞いた。

「いるよ。五右衛門さんが帰って来るのを首を長くして、ずっと待ってたのよ。ここ、お二人の愛の巣なんでしょ? いいおうちネ」

 夢遊は何と返事をしたらいいのか迷った。

 顔付きはマリアとソックリだったが、性格はちょっと違うらしい。おおらかというか、アッケラカンというか、無邪気というか、あの小太郎が惚れたわけも分かったような気がした。

 お澪が土間に下りて来た。

「もう会えないと思ったけど、また、来ちゃった」とお澪はニコッと笑った。

「会いたかったぞ」と夢遊が思わず言うと、「オーリャ、オーリャ」とジュリアが囃し立てて冷やかした。

「まったく、この子は‥‥‥ジュリアをあなたに返すわ」

「いいのか?」

「あたし、鍵は持ってないよ」とジュリアは言った。「女将さんに取られちゃった。うまく、取り返してよ」

「お前に聞きたいんじゃがの。天主の黄金を盗むつもりなのか?」

「当たり前じゃない。そのために雑賀まで行ったり、小田原までも行ったんだもん」

「黄金を盗んで、何をするつもりじゃ?」

「孤児院を作るの」

「孤児院じゃと? マリアはオスピタルを作ると言っておったぞ」

「オスピタルも作るけど、孤児院も作るのよ。ネエ、マリアはどこにいるの?」

「黄金を盗むために修行しておるわ」

「ほんと? あたしも修行したのよ、風摩の砦で。どっちが強くなったか試したい。ネエ、マリアの所に連れてってよ」

 夢遊はお澪を見た。

 お澪はうなづいた。

 夢遊は新五にジュリアを山に連れて行けと命じた。

 ジュリアは焼き立てのイワナをほお張り、新五の手を取ると踊るように飛び出して行った。

 ジュリアがいなくなると、「まったく、楽天的な子だわ」とお澪は笑った。

「孫一様の所からさらって来た時だって、全然、怖がらないで平気な顔して、あたしに色々聞いて来るのよ」

「紀州屋からさらって、小野屋に連れて行ったのか?」

「そう。あなたが何で捜してるのか知りたくってネ」

「ジュリアはすべて話したのか?」

「あたしがマリアの事も五右衛門様の事を知ってると言ったら、全部、話してくれたわ」

「ちょっと待て。その時点で、わしが五右衛門だと知っておったのか?」

「ごめんなさい。その事は安土に来る前から知ってたの」

「どうして?」

「京都の小野屋はあなたが暴れていた頃からあったのよ。あなたが我落多屋を開いた事も知ってるの」

「最初から知っていて、わしに近づいて来たのか?」

「なに言ってるのよ。近づいて来たのはあなたじゃない」

「アッ、そうじゃったか」

「あなたが近づいて来たから、あたしは戸惑ったのよ。盗賊なんかと付き合っていいんだろうかってネ。でも、あなたから裏の情報が得られるかもしれないと思って付き合う事にしたの」

「情報を得るためにわしと付き合ったのか?」

「最初はそうだったわ。でも、付き合ってるうちに、だんだんとあなたに惹かれて行ったのよ。お正月、あなたと一緒に過ごして、あたしは小野屋なんか捨てて、ずっと、あなたと一緒にいたいと思ったわ。あなたがいなくなって、あたしは仕事も手につかず、あなたの事ばかり思ってた。でも、関東で大事件が起こって、あたしは小野屋の女将なんだって自覚したの。そして、あなたの事を諦めようと決心したのよ。あなたと会えば、あたしは自分を見失ってしまう。もう二度と会わないと決心したの」

「そうじゃったのか‥‥‥」

 夢遊はお澪を抱き絞めた。

「会いたかった‥‥‥」とお澪は夢遊の胸の中でつぶやいた。

「お二人さん、わしがいる事を忘れてるんじゃないのか?」と突然、男の声がした。

「忘れてたわ。あなたに紹介する人がいるの」

 お澪は夢遊から離れた。

「まったく、そなたのような女子をただの女子にしてしまうとは、石川五右衛門も大した男のようじゃな」

 夢遊が声のする方を覗くと三十前後の侍が奥の部屋で酒を飲んでいた。

「風摩太郎様です」とお澪が言った。

 不思議な顔をして夢遊がお澪の顔を見ると、「風摩小太郎様の御長男です」と説明した。

「ほう。風摩小太郎殿の跡継ぎか‥‥‥まさか、風摩が天主の黄金を狙ってるのか?」

「いいえ」とお澪は首を振った。

 夢遊が部屋に上がると、太郎は姿勢を改めて挨拶をした。

「風摩の跡継ぎ殿がわざわざ本名を名乗るというのは余程の一大事じゃな?」

「確かに、その通りです。天下が引っ繰り返る程の一大事となりましょう」

「まずは一杯、いただこう。自慢の江川酒じゃな」

 お澪が注いでくれた酒を飲むと、「信長の暗殺じゃな?」と夢遊は低い声で言った。

 太郎はかすかに、うなづいた。

「マリアの持っていた鍵が目的か?」

 太郎は首を振った。

 夢遊はお澪を見た。

「鍵はいいのよ。ジュリアの鍵もあなたに渡すわ」

「抜け穴を通って、天主に忍び込んで信長を()るんじゃねえのか?」

「初めはそう考えましたが、やめる事となりました」と太郎は言った。

「なぜじゃ?」

「抜け穴を通れば信長を暗殺できるかもしれません。しかし、それではダメなんです。信長の死は当然、隠され、一年あるいは半年後に病死と発表されるでしょう。そして、岐阜にいる信忠が跡を継いだのでは何にもなりません。信長から関東管領(かんれい)に命じられて廐橋(うまやばし)城(前橋市)に入った滝川左近は信長の方針通りに北条領国に攻め寄せるでしょう。それを食い止めるには(おおやけ)の場で、信長に死んでもらわなくてはならないのです」

「安土の天主内ではなく、外で殺るというのか‥‥‥」

「そうです。誰もが、信長は絶対に死んだと思えるような所で殺ります」

「ウーム、難しいのう」

「はい、難しいかもしれません。そこで、五右衛門殿の力をお借りしたいのです」

「わしの力を?」

「これは取り引きよ」とお澪は言った。

「わしがそなたたちに力を貸すと、そなたたちはわしに何をしてくれるんじゃ?」

「ジュリアの鍵よ。信長が死んだ後、天主に忍び込めばいいわ」

「成程、信長が死ねば盗む事も可能じゃな。ところで、その鍵だが、どうやって見つけたんじゃ? 鍵の事はジュリアも知らなかったはずじゃ」

「確かに知らなかったわ。でもネ、ジュリアがいなくなった後、銀次さんがジュリアを捜していたでしょ。見つかるわけないと思っていたけど、一応、見張ってたの」

「銀次に分からずに後を付けていたのか?」

 お澪はうなづいた。

「さすがじゃのう。という事は山の砦も知ってるのか?」

「ええ、ごめんなさい」

「謝る事はねえ。後を付けられて気づかねえ銀次が悪い。それで、わしに何をしろと言うんじゃ?」

「羽柴様に頼んで信長様を安土から出してほしいのよ」

「信長を安土から出す?」

「信長に救援の依頼をしてほしいのです」と太郎は言った。「羽柴殿は今、強敵毛利を相手に戦っています。救援の依頼をすれば、信長は必ず動くでしょう。安土を出た信長は京都に行き、いつものように本能寺を宿所にするはずです。信長が京都に行けば、公家や商人は皆、挨拶に訪れます。本能寺を襲えば、信長の死は全国に広まり、廐橋の滝川左近も引き上げる事となりましょう」

「風摩の忍びが本能寺を襲うのか?」

「いえ、暗殺ではダメです。本能寺を燃やすくらいの規模でやらなくてはなりません」

「そうなると北条の兵が攻めるのか?」

「それも無理です。北条の大軍が京都に入る事はできない」

「それじゃア、誰がそんな大それた事をやるんじゃ。信長に兵を差し向ける程の奴がいるとは思えん‥‥‥もしかしたら、雑賀の孫一か?」

「違うわ」とお澪は手を振った。「孫一様の事も考えたわ。孫一様の鉄砲隊なら成功するかもしれない。でも、失敗する可能性もあるわ。それに、今の孫一様は信長様を襲撃する事など考えないでしょ。もう、以前の孫一様とは違うわ」

「そうじゃな。奴はそんな危険な仕事を引き受けまい。失敗すれば殺され、成功したとしても信長の家臣どもに殺されるのは目に見えている。孫一じゃなくても、そんな分の悪い事をする奴などおるまい」

「それが一人いるのよ」

「わしの事じゃあるめえな?」

「この仕事は忍びじゃダメなの。正式な武将でなければダメなのよ」

「一体、誰なんじゃ?」

「以前、あなたに話したでしょ? 若い頃、小田原にいた事のある人よ」

「明智十兵衛か?」

 お澪も太郎もうなづいた。

「馬鹿な。十兵衛がそんな愚かな事をするはずがねえ」

「愚かとは言えないのよ」とお澪が言った。「あなたは最近の信長様は狂ってると言ったわネ。同じ思いでいるのよ、十兵衛様も。このまま、放ってはおけないと」

「しかしのう、あの真面目一方の男が動くとは思えん」

「十兵衛殿の本拠地は坂本と丹波の亀山(亀岡市)です」と太郎が言った。「どちらも京都に近い。さらに都合のいい事に滝川左近は上野(こうづけ)、羽柴藤吉郎は備中、柴田権六は越中(富山県)と大軍を率いた主力の家臣たちは皆、遠くで敵と戦っているんです。十兵衛殿が信長を殺せば、当然、奴らは(とむら)い合戦をするために京都に向かうでしょうが、すぐには引き返せない。十兵衛殿にはたっぷりと時間があるという事です」

「十兵衛に信長の跡を継がせるつもりなのか?」

「それは十兵衛殿自身の腕次第です。わしらとしては織田家がバラバラになってくれれば、それでいいんですよ」

「信長の跡を継ぐのは十兵衛でなくても構わんのじゃな?」と夢遊は聞いた。

 太郎はうなづいた。「わしらの目的は信長に消えてもらう事です。信長が死んだ後、誰が後継者になろうと今の所はどうでもいい事です」

「そうか。という事は藤吉郎が十兵衛を倒しても文句はねえな?」

「ありません」と太郎はハッキリと言った。

「藤吉郎様に天下を取らせる気なの?」とお澪は夢遊を見た。

 夢遊はうなづいた。「できるなら、藤吉郎に天下を取ってもらいてえ。奴ならきっと、戦のねえ平和な国を作ってくれるに違えねえ。十兵衛が信長を殺したら、すぐに弔い合戦をしてもらう」

「無理よ、そんなの。毛利の大軍が追いかけて来るわよ」

「いや、そこの所をうまくやる。奴ならできるはずじゃ」

「そうネ‥‥‥」

「五右衛門殿、そなたが藤吉郎殿を動かしてくれたら、十兵衛殿はわしらが動かします。この話に乗ってくれませんか?」

 太郎は夢遊の顔を見つめた。

「うむ」と夢遊はうなづいた。「わしとしては乗ってもいい。ただ、藤吉郎の奴が信長を殺す事に賛成するかが問題じゃ。奴は信長に恩を感じ、信長のために必死になって働いて来た。今まで、信長がこの世からいなくなる事など考えた事もあるめえ。難しいのう」

「一応、当たってみてよ」とお澪が夢遊の膝をたたいた。

「しかしのう。もし、この作戦を藤吉郎の奴が信長にバラしたらどうなる?」

「そうなれば、勿論、作戦は中止になります」

「わしとしては信長を殺す事には賛成じゃが、藤吉郎をうなづかせるのは難しい」

「そこを何とか頼みます。今が一番いい時期なんです。十兵衛殿が四国にでも出陣してしまえば、信長を殺す者がいなくなってしまう」

「十兵衛の方はどうなんじゃ。奴が乗って来るかのう」

「藤吉郎殿が引き受けてくれたら、親父が出て来ます」

「風摩の小太郎殿が来るのか?」

「はい。親父は十兵衛殿と共に修行をした仲だそうですから、十兵衛殿を説得する自信はあるようです」

「そうか、風摩のお頭も出て来るのか‥‥‥」

「後はお澪に任せるわ。積もる話もあるみたいだからな」

 太郎は軽く頭を下げると出て行った。

「小野屋まで帰れるのか?」と太郎の後姿を見送りながら、夢遊はお澪に聞いた。

「心配いらないわよ。一流の忍びなんだから」

「そうじゃったな」

 お澪は夢遊の隣に来ると、夢遊の顔を見つめて笑った。

 夢遊はお澪を抱き寄せると口を吸った。

「一年振りのようじゃ」

「もう、会わないと決めていたのに‥‥‥」

 お澪は夢遊の顔を優しく撫でた。

「運命じゃ」

「会いたかったわ、本当に‥‥‥小田原に帰っても、あなたの事ばかり思ってた」

「わしもじゃ‥‥‥」

「もう、離れないわ」

「わしこそ、離さん」

 二人はしばらく抱き合っていたが、お澪は急に真顔になって、夢遊から離れた。

「まず、お仕事の方を片付けちゃいましょ」

「そうするか」と夢遊も真顔になってうなづいた。

「あなたに藤吉郎様を動かしてほしいのよ。藤吉郎様が動けば信長様は亡くなり、天主の黄金はすべて、あなたのものになるわ」

「風摩は天主の黄金はいらんのか?」

「信長様が亡くなって、織田家が分裂すればいいの。関東にいる織田家の家臣たちが引き上げれば、武田家の領地を手に入れる事ができるわ。天主の黄金を取らなくても、甲斐の金山が手に入るのよ」

「成程、山ごと奪い取るか。わしらとは規模が違うのう」

「明日の晩、太郎様と一緒に抜け穴に入ってちょうだい」

「なぜ、明日の晩なんじゃ?」

「今晩は長谷川屋敷で宴会があるらしいの」

「宴会?」

「戦勝祝いに来てくれた人たちを持て成すんじゃないの? あのお茶室も使うかもしれないのよ」

「ほう、信長も来るのか?」

「機嫌がよければ現れるらしいわ」

「そなた、どうして、そんな事まで知ってるんじゃ?」

「風摩のくノ一がいるの」

「城内にか?」

「そう。信長様の側室(そくしつ)になってるわ」

「信長の側室? 信じられん」

 夢遊は本気で驚いた。噂に聞く風摩の恐ろしさをマザマザと見せつけられたような気がした。

「大したもんじゃ。風摩を敵に回したくはねえのう。どうやって側室に上げたんじゃ?」

「信長様の好みを分析して、信長様が鷹狩りに行った時、村娘に扮して、さりげなく信長様の前に現れるのよ。信長様はうまく引っ掛かって、お城に上げたわ」

「そんなにうまく行くものなのか?」

「娘だけじゃダメよ。両親もお爺さんもお婆さんも子供たちも皆、揃えるのよ。時によっては農家を建てる事もあるわ。それに、娘だけを入れてもダメなの。娘と一緒に侍女(じじょ)も入れなければ情報を得る事はできないわ」

「その侍女はどうやって情報を外に出すんじゃ?」

「うちの者がお城にお化粧道具とか書物とかを売りに行くのよ」

「小野屋はそこまで信用されてるのか?」

「岐阜の小野屋は信長様が来る以前から斎藤道三様と取り引きをしていたの。信長様が岐阜のお城を建てる時も協力したので信用はされてるのよ」

「そうか、歴史があるんじゃな」

「そういう事。ネエ、藤吉郎様の事、引き受けてくれるわネ?」

「うむ。そなたの頼みを断る事はできん」

「ムイント・オブリガード(どうもありがとう)」

「デ・ナーダ(どういたしまして)」

 二人は顔を見合わせて笑った。

「お仕事のお話はおしまい。ネエ、お風呂に入りましょ」

「おっ、湯が沸いてるのか?」

「ジュリアが沸かして運んだのよ。でも、熱すぎて入れなかったみたい」

「ジュリアも気が利くのう」

「そうじゃないの。あの子、自分で入るつもりだったのよ。でも、お山に行っちゃったわ。もう、丁度いいんじゃないかしら」

「よし、入ろう。梅はもう咲いてねえがな」

「梅はないけど、お池の回りにアヤメが綺麗に咲いてるわ」

 夢遊はお澪を抱き上げると、「ウォー!」とわめきながら湯殿へと走り出した。





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