4.越生の自得軒
江戸城から九里程北西の所に河越城がある。太田道灌の主君である 江戸城も河越城も三十年程前に、道灌と父の道真によって、当時、敵対していた 享徳三年(一四五四年)に始まった関東の争乱は三十年にも及んだ。四年前にようやく、古河公方と関東 公方とは幕府が関東の地を治めるために置いた出先機関で、元々は鎌倉にいて鎌倉公方と呼ばれていた。関東管領とは、その鎌倉公方の 上杉氏には また、越後にも上杉氏はいた。今の管領職に就いている 関東管領は上杉顕定だったが、実際は、その父親である越後の上杉房定が実力を持って関東を治めているといってもよかった。 太田道灌は扇谷上杉氏の執事だった。道灌の活躍により、扇谷上杉氏の勢力は着々と伸びて行った。関東の武士はもとより道灌の活躍は京の都にまで聞こえている。 河越城は扇谷上杉氏の本拠地として修理大夫定正が守っていたが、戦も治まったため、定正は相模の国の その河越城から五里程西に行った所に 伏見屋銭泡と漆桶万里は道灌に連れられて、自得軒に来ていた。 越生の町も十年前より賑やかになっていた。以前、樹木が生い茂っていた所が切り開かれ、家々が建ち並んでいる。中には公家風の屋敷もあった。 銭泡は道真に歓迎された。道真はもう八十歳近いはずなのに相変わらず元気だった。若くて美しい側室に囲まれて、浮世離れした生活を送っていた。 道真は一行を正式なお茶会で持て成した。茶室も庭園内に建てられてあった。やはり、江戸城の筑波亭を真似した四畳半茶室だった。 蒸し暑い日だった。 道真はまず、風呂で一行を持て成し、さっぱりした所で茶室に案内して、一汁三菜の会席で持て成した。珍しい物はないが、季節を感じさせる料理が、それに合った器に盛られてあった。酒を軽く飲みながら茶道具の事をあれこれ話した後、中立ちして、道真の振る舞うお茶を飲んだ。 お茶会が終わると今度は屋敷の方に戻って宴会が始まった。道真を慕って越生に来ている公家衆や隠居した武士たちが集まり、賑やかな宴会になった。どこから連れて来たのか、遊女たちや芸人たちも数人混ざっていた。 道灌は次の日に帰って行ったが、銭泡と万里は十日間、道真のもとに滞在した。 滞在中、お茶好き、歌好き、漢詩好き、ただの酒好きの連中が訪ねて来て、毎日のようにお茶会、連歌会、 銭泡と万里は庭の片隅に建てられた二間続きの離れに滞在した。十年前にはなかったが、客人を持て成すために建てたものらしい。 万里が龍穏寺の和尚のもとに出掛けている時だった。銭泡は部屋の中で、道真が新しく手に入れた茶道具の鑑定をしていた。道真がのっそりと現れ、縁側に腰を下ろした。 「どうじゃな、名物はあるかね」と道真は聞いた。 「はい。結構、値打物がございます」 「そうか、そいつはよかった」 よかったと道真は言ったが、茶道具を見てはいない。扇子を扇ぎながら庭の方をぼうっと眺めていた。 「これ程の物をよく手に入れられましたね」 「なに、関東には目利きがおらんからのう。値打物がかなり蔵の奥に眠っておるんじゃよ。古い寺院やらを訪ねて蔵の中を見せてもらうと掘り出し物が結構、出て来るんじゃ」 「成程‥‥‥」 「ところで、伏見屋殿、そなたは各地を旅しておるから、ちょっと聞きたいんじゃがのう」 道真は縁側に上がり込むと、銭泡の顔を見つめた。 「はい、何です」 銭泡は茶碗を置いて、道真の方に体を向けた。いつになく、思い詰めているような顔付きだった。 「 「道灌殿の評判ですか」 「そうじゃ」 「勿論、評判はいいですよ。京の都でも道灌殿は関東の名将とのもっぱらの評判です」 「やはりのう」 「道灌殿がどうかなさったんですか」 「うむ」と言ったきり、道真は扇子を開いたり閉じたりしていた。 銭泡には道真が何を言おうとしているのか分からなかった。 「わしの取り越し苦労かもしれんが、どうも、危険な感じがするんじゃよ」 「道灌殿が危険?」 「うむ‥‥‥」 道真は庭の方を見つめたまま、また、黙り込んでしまった。 雲行きがおかしくなって来た。一雨来そうな空模様だった。 「戦が続いていた頃はのう」と道真は言った。 「伜の活躍はお屋形様(扇谷上杉定正)を初め、管領殿にも頼りにされ、頼もしい家臣と見られておった。しかしのう、戦が治まって平和な時が続くと、関東の武士たちはお二人を差し置いて、何かと伜を頼りにするようになったんじゃ。武士だけではない。京から下向して来られたお公家衆も伜を頼って関東に来る。そなたも知っていると思うが、今、江戸の城下はまるで関東の都じゃ‥‥‥」 「確かに」 「危険なんじゃよ。伜は管領ではない。扇谷上杉氏の当主でもない。扇谷上杉氏の 「管領殿や扇谷のお屋形様にしてみれば、道灌殿の存在は面白くないという事ですか」 道真は庭から銭泡の方に顔を移すと頷いた。 「さよう。管領殿は今、鉢形城にいらっしゃる。お屋形様は相模の糟屋の屋形にいらっしゃる。行ってみれば分かるが、どちらの城下も淋しいものじゃ。お二人が江戸の城下の賑わいを見たら、気分を悪くするのは当然の事じゃろう」 「‥‥‥」 「わしは何となく、嫌な予感がするんじゃよ」 「道灌殿にその事を言いましたか」 「言ったが無駄じゃった。自分を頼って来る者たちを放ってはおけんと言いおった。江戸城が栄えているのは、湊があるからじゃ。湊があれば、栄えるのは当然じゃ。たまたま、わしが江戸にいるというだけの事じゃと言って、わしの言う事など聞かんのじゃよ」 「そうですか‥‥‥しかし、道灌殿が名将なのは事実です。そして、歌や詩などにも詳しい。お公家さんたちが道灌殿を頼って行くのは道灌殿が名将というよりも、道灌殿が自分たちを理解し、保護してくれるからです。管領殿や扇谷のお屋形様の事は存じませんが、道灌殿のようにお公家さんたちを理解して、保護をすれば自然と集まって来ると思いますが」 「まあ、それはそうかもしれんが、今、伜は管領殿やお屋形様にとって、煙たい存在になっているという事も事実なんじゃ。また、戦でも始まれば、お二人共、伜を頼りにして、そんな事は忘れてしまうんじゃが、このまま、平和の世が続けば危ないのう」 「‥‥‥」 「名将と呼ばれた者の悲劇じゃ。昔から戦で活躍した者は戦が終わってしまうと邪魔者となり、悲惨な死に方をしてしまう‥‥‥何事も起こらなければいいが‥‥‥」 「名将の悲劇ですか‥‥‥」 「わしには、どうしたらいいのか分からんわ。銭泡殿、伜にそれとなく、身に危険が迫っている事を知らせてくれんか」 「はい、分かりました」 「すまなかったのう」 道真は縁側から降りた。扇子を忘れていた。銭泡は扇子を取ると道真に渡した。 「頼むぞ」と道真はもう一度、言った。 銭泡は頷いた。 「今夜は雨になりそうじゃ」 空を見上げながら、道真は屋敷の方に帰って行った。 銭泡は道真の後ろ姿を見送りながら、改めて、道真の言った事に驚いていた。 道灌の身に危険が迫っているという。そんな事は思ってもみなかった。確かに、道灌の主人である扇谷上杉氏や管領から見たら、道灌の人気は妬むべきものがあった。道灌程の武将なら、その位の事は気づいているだろうが、一度、それとなく聞いてみようと思った。 その晩、大雨となり、次の日も一日中、雨が降っていた。
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