沖縄の酔雲庵

尚巴志伝

井野酔雲







戸口の左馬頭




   

 アマンウディー(カサンウディー、大刈山)を下りたサスカサたちが万屋(まにや)グスクに行くと、広い庭に大勢の若者が集まって武当拳(ウーダンけん)の稽古に励んでいた。

 万屋グスクは湧川大主(わくがーうふぬし)鬼界島(ききゃじま)(喜界島)攻めの拠点として築いたグスクなので石垣も高くなく開放的なグスクだった。湧川大主がいなくなった今、近在の若者たちは気楽に出入りしているようだ。

「湧川大主様が教えた人たちです」と奄美ヌルが言って、若者たちの中に入って行った。

「あなたたちも一緒にお稽古をしなさい」とサスカサは弟子たちに言って、サスカサたちを待っていた万屋之子(まにやぬしぃ)の案内で丘の上に建つ屋敷に向かった。

 サスカサの弟子たちの稽古を見て驚いた奄美ヌルは、サスカサが武当拳の名人だと聞くと迷わずサスカサの弟子になりたいと言った。

 サスカサはサグルーとマウシと一緒にいたマキビタルーを誘って海辺に出た。砂浜に座って鬼界島を眺めながらサスカサはサグルーたちと何を話していたのかマキビタルーに聞いた。

「奄美の平定が終わったらサグルーさんもマウシさんも今帰仁(なきじん)を守る事になると言っていた。俺にサムレー大将を務めてくれと言ったけど、(いくさ)の経験のない俺をすぐにサムレー大将にするわけにはいかないから、首里(すい)慈恩寺(じおんじ)に入って二年ほど修行を積めと言われたんだ」

「慈恩寺に入るの?」とサスカサは意外な返答に驚いた。

 マキビタルーの実力ならサムレー大将を務める事はできると簡単に思っていたが、奄美大島から連れて来た新参者をサムレー大将に抜擢するには重臣たちを納得させなければならないようだった。

 マキビタルーはうなづいて、「首里で暮らす事になりそうだ」と笑った。

「あたしは島添大里(しましいうふざとぅ)にいるから首里の方が今帰仁よりも近くていいわ」とサスカサも嬉しそうに笑った。

「慈恩寺の慈恩禅師様はヂャンサンフォン様(張三豊)から武当拳のすべてを伝授された人よ。それに、念流(ねんりゅう)というヤマトゥ(日本)の武術も編み出した凄い人なのよ。慈恩寺で修行するのはきっと、あなたの将来の役に立つと思うわ」

「サグルーさんからヒューガ殿も慈恩禅師殿の弟子だと聞いた。あの人も凄い人だと思ったよ」

「ヒューガさんはあたしの父のお師匠だった人なのよ」

「サスカサのお父さんも強いんだな」

「父も強いし、母も強いわ」

「お母さんも強いのか」

女子(いなぐ)サムレーたちの総大将が母なのよ」

「父親も母親も強いのならサスカサが強いのは当然だな」

「みんなからそう思われているから、あたしも必死になって修行を積んだのよ。サスカサの名を傷つけないようにね」

「俺もそうさ。マキビタルーの名に負けないように修行を積んだんだ。慈恩寺に行くのが楽しみだよ」

 万屋グスクでマキビタルーと二人だけの時を過ごしたサスカサは翌日、古見(くみ)(小湊)に向かった。ユワンウディー(湯湾岳)に行く七月十五日まで間があるので、古見にいるクミ姫様に会っておきたかった。

 一緒に行ったのはシンシン(今帰仁ヌル)、ナナ(クーイヌル)、ミナ(志慶真ヌル)、タマ(東松田若ヌル)、サスカサの弟子の瀬底(しーく)若ヌル、与論(ゆんぬ)若ヌル、畦布(あじふ)若ヌル、犬田布(いんたぶ)若ヌル、徳之島(とぅくぬしま)若ヌル、奄美ヌルの六人、湯湾(ゆわん)若ヌル、阿室(あむる)若ヌル、手花部(てぃーぶ)若ヌルで、武当拳の稽古に来ていた若者たちの小舟(さぶに)に乗って出掛けた。

 東海岸(あがりかいがん)を南下して一時(いっとき)(二時間)ほど行くと神崎(かんざき)(明神崎)と呼ばれる海に突き出た小山があって、山の上に古いウタキ(御嶽)があると手花部若ヌルが言った。

「ユワン姫様の娘さんがここにいらっしゃって、神崎の向こう側に湯湾(用安)という(しま)を造ったのです」

「えっ、湯湾がここにもあるのですか」とサスカサたちは驚き、急ぐわけではないので神崎のウタキに寄っていく事にした。

 神崎の西側に砂浜があったので、一行はそこから上陸して、山頂を目指した。細い道は急坂だったが、すぐに山頂に着き、樹木(きぎ)に覆われた中にウタキはあった。

 サスカサたちが並んでお祈りを捧げると、

「母から聞いているわ」と神様の声が聞こえた。

「ユワン姫の三女のカンよ。よろしくね」

「カン姫様はどうして、ここにいらしたのですか」とサスカサは聞いた。

「イーチュ(絹)を作るためにここに来たのよ」

「この島でイーチュを作っているのですか」

「古見のクミ姫様から教わったのよ。クワーギ(桑)を植えて、イーチュームシ(蚕)を育てて、イーチュを作るのよ」

「クミ姫様から教わったのですか」

「クミ姫様はヤマトゥに行ってイーチュ作りを学んで来たの。イーチュームシも持って来たのよ」

「クミ姫様が瀬織津姫(せおりつひめ)様の都で学んできたのね」とシンシンが言った。

「そうらしいわ。クミ姫様は凄い人ですよ。ヤマトゥに行っただけでなく、瀬織津姫様が造った都まで行ってきたのよ。当時、クミ姫様は瀬織津姫様の事を知らなかったはずなのに、富士山まで行くなんて本当に凄い事だわ」

「カン姫様はヤマトゥに行った事があるのですか」

「生前はないけど、スサノオ様が瀬織津姫様をお連れして琉球にいらしたあと、あたしも行ってきたのよ。楽しかったわ。でも、瀬織津姫様の都は樹海に埋まってしまっていたわ」

「ここから鬼界島が見えると思いますが、徳之島でトゥクカーミー(カムィ焼)を焼いていた頃、ここも栄えたのですか」とサスカサが聞いた。

「湯湾の(しま)はこの山の西方(いりかた)にあるんだけど、鬼界島と徳之島を結ぶ中継地として賑わったのよ。湯湾ヌルの兄がグスクを築いて按司を名乗って村を守ったわ。だけど、トゥクカーミーが終わったあと倭寇(わこう)に攻められて滅ぼされてしまったのよ。あたしの子孫の湯湾ヌルも殺されて、生き残った按司の娘がヌルを継いだけど、あたしの声は聞こえないわ」

 サスカサたちはカン姫とユワンウディーでの再会を約束して山を下りた。

久米島(くみじま)堂之比屋(どうぬひや)様もイーチュームシを育てていたわ」とナナが思い出したように言った。

「久米島も古くからイーチュを作っていたって言っていたから、きっと古見のクミ姫様が久米島にも伝えたのね」

「堂之比屋様は明国(みんこく)に行った時に新しい技術を身に付けて来たって言っていたわ」とシンシンが言った。

「湯湾ヌルはわたしの祖母の指導を受けてヌルになりました。会っていきますか」と手花部若ヌルがサスカサに聞いた。

 サスカサはナナとシンシンを見た。

「ここなら万屋グスクから近いからいつでも来られるわ。あとでいいんじゃない。あたしは早く古見のクミ姫様に会いたいわ」とナナが言って、サスカサも賛成した。

 一行は小舟に戻って戸口(とぅぐち)を目指した。

 戸口には平家の子孫の左馬頭(さまのかみ)がいて、グスクの裏山にはキキャ姫の孫のティン姫のウタキがあるというので挨拶に寄らなければならなかった。ティン姫は二代目キキャ姫の娘で、ユワン姫とハッキナ姫の従姉(いとこ)だった。

 万屋から神崎までは平野があったが戸口の辺りは山ばかりで、ティンゴー(大美川)と呼ばれる川の河口に戸口はあった。河口が港になっていて左馬頭の船らしい大きな船が一隻泊まっていた。

 サスカサたちが河口の砂浜に小舟を乗り上げて上陸すると若ヌルを連れた戸口ヌルが現れて歓迎してくれた。戸口ヌルは色白のヤマトゥンチュのような顔付きで、若ヌルは十五歳位に見えた。

「神様に言われてお待ちしておりました」と戸口ヌルは言って笑ったが、何となく冷たい笑顔だった。

「前回は山北王(さんほくおう)に従えと言われ、今回は中山王(ちゅうざんおう)に従えと言われました。結局、強い者に従えと言う事なのですね。そして、七月十五日にユワンウディーで中山王のヌル様を歓迎するので必ず来いとも言われました。あなたたちにはわからないでしょうけど、わたしは一千年以上も前にこの村を造った神様の子孫なのです」

「ティン姫様ですね。ティン姫様に御挨拶に参りました」とサスカサが言うと戸口ヌルは驚いた顔をしてサスカサを見た。

「あなたは神様の声が聞こえるのですか」

「ティン姫様はユンヌ姫様の曽孫(ひまご)です。ユンヌ姫様はここにいるナナとシンシンと一緒にヤマトゥに行って瀬織津姫様を探し出してお連れしたのです」

「えっ! あなたはササ様なのですか」

「ササ(ねえ)は今、おめでたで琉球にいます。わたしはササ姉の従兄(いとこ)の島添大里按司の娘のサスカサです」

「あなた、知念姫(ちにんひめ)様を御存じかしら」とナナが聞いた。

 戸口ヌルは首を振った。

「知念姫様はティン姫様の御先祖様で、瀬織津姫様の妹です。ユンヌ姫様の祖母の豊玉姫(とよたまひめ)様も知念姫様の子孫です。瀬織津姫様の子孫はヤマトゥの国で繁栄して、スサノオ様も瀬織津姫様の子孫です。そして、サスカサは知念姫様の子孫の父親と瀬織津姫様の子孫の母親から生まれたのです。サスカサは知念姫様の子孫の神様の声も瀬織津姫様の子孫の神様の声も聞こえます。そして、アマン姫様の声も聞こえるのです」

「えっ! アマン姫様‥‥‥アマン姫様の事はカサンヌ姫様から聞きました。カサンヌ姫様はアマン姫様の声は聞こえないとおっしゃっていました」

「そうなのです。アマン姫様は自分の声が聞こえるヌルがいた事にとても喜んでいました。サスカサだけでなく、シンシンもミナもアマン姫様の声が聞こえます」

「失礼いたしました」と戸口ヌルは頭を下げた。

「あなた方がそんな凄いヌル様だとは知りませんでした。中山王のヌルだと聞いて、名前だけのヌルだろうと思い込んでしまいました。申し訳ありませんでした。ティン姫様のウタキに御案内いたします」

 サスカサたちは戸口ヌルに従って集落の中に入っていった。戸口は平家の子孫の村だが集落の雰囲気は湯湾や赤木名(はっきな)と変わりなく、村の人たちもあまり変わりないが色白の女子(いなぐ)が多いような気がした。

「あれ、見て」とナナが言った。

 ナナが示す方を見ると赤い鳥居が見えた。

厳島(いつくしま)神社です」と戸口ヌルが言った。

「左馬頭様の御先祖様が航海の神様として弁才天様を祀ったのが始まりだそうです」

「瀬織津姫様を祀っているのね」とシンシンが言うと、

「弁才天様は瀬織津姫様なのですか」と戸口ヌルが聞いた。

「ヤマトゥの役行者(えんのぎょうじゃ)様が熊野の山奥に瀬織津姫様を弁才天様として祀ったのが始まりのようです」

「厳島神社の弁才天様は役行者様が彫った物です」と戸口ヌルが言ったので、シンシンとナナは驚いた。

「役行者様がここに来たのですか」とナナが聞いた。

「来られたようです。その時、役行者様が彫られた弁才天像を残したのです。その弁才天像は代々のティンゴーヌルがお守りしてきました」

「ティンゴーヌル?」

「古くはここはティンゴーと呼ばれていました。左馬頭様の御先祖様がここにいらした時に戸口と改めて、ティンゴーヌルも戸口ヌルを名乗るようになったのです」

「ティンゴーとはティン姫様に関係あるのですね」

「川の名前です。ティン姫様の名前をいただいて川の名前がティンゴーとなって、この地もティンゴーと呼ばれるようになったのです。役行者様の弁才天像ですが、左馬頭様の御先祖様が厳島神社を建てて、神社の神様としてお祀りしたのです」

「この島では川の事をゴーと呼ぶのですね」

「そうです。ティン姫様の川でティンゴーです」

「ヤマトゥの天川(てんかわ)と関係あるのかしら?」とシンシンが言った。

「ヤマトゥに行った時に役行者様に聞きましょう」とナナが言って、うなづいた。

「お参りしますか」と戸口ヌルが聞いた。

「瀬織津姫様をお祀りしているのならお参りして行きましょう」とサスカサが言って、一行は鳥居をくぐって厳島神社に向かった。

 境内は思っていたより広かったが社殿は小さかった。戸口ヌルに従ってお祈りしたが神様の声は聞こえなかった。

 社殿に入って役行者が彫った弁才天像も見せてもらった。高さ一尺(約三十センチ)もない小さな像で、天川の弁才天像とよく似ていた。琉球のビンダキ(弁ヶ岳)にあった役行者の弁才天像はなくなってしまったが、この像を大きくしたものだったに違いないとシンシンとナナは思っていた。

 集落を抜けると山の中腹に土塁に囲まれたグスクがあった。サグルーが一緒ではないのでグスクに寄るつもりはなかった。サスカサたちはグスクの脇を通って山に登った。

 曲がりくねった細い山道を進むと山頂に着き、山頂からの眺めはよかった。集落とその先にある港が見渡せた。港の両脇に山があって、海は見えるが鬼界島は見えなかった。景色を眺めながら若ヌルたちがキャーキャー騒いだ。

 古いウタキは山頂の後方にあり、珍しく樹木に囲まれていなかった。日差しを浴びたウタキの前に並んで(ひざまづ)き、サスカサたちはお祈りを捧げた。

「十六人もヌルが集まるなんて初めての事じゃないかしら」と神様の声が聞こえた。

「ティン姫様ですね。御挨拶に参りました」とサスカサが言った。

「キキャ姫の孫のティン姫よ。曽祖母のユンヌ姫がいる与論島(ゆんぬじま)への中継地として、あたしはここに来たの」

「役行者様がいらしたと聞きましたが、このお山にも登ったのですか」とナナが聞いた。

「ティンゴーヌルが連れてきたわ。当時はこんなにも眺めはよくなかったのよ。木が生い茂っていてウタキらしかったのよ。役行者は『いい眺めなのに勿体ない』と言って木をみんな伐っちゃったのよ。それ以来、木が生えなくなって、この有様よ。最初はあたしも腹を立てたけど、今ではこれでいいと思っているの。毎朝、朝日を浴びて気持ちいいわ。役行者はここで切った木で弁才天を彫って、ティンゴーヌルに預けたのよ。そのうち、弁才天を祀ってくれる奴が来るだろうって言っていたわ。五百年後、左馬頭(平行盛)がやって来て神社を建てて弁才天を祀ってくれたのよ」

「左馬頭様はどうしてここに来たのですか」

「左馬頭は古見でティンゴーヌルと出会ったのよ。当時、古見は栄えていて、左馬頭は諸鈍(しゅどぅん)から古見に行ったの。古見に住み着くつもりだったのかもしれないけど、ティンゴーヌルと出会って、一緒にここに来て、ここに住み着いたのよ」

「左馬頭様はティンゴーヌル様のマレビト神だったのですね」

「そうなのよ。あたしは左馬頭を呼んで平家が身に付けている文明をこの村に広めてほしかったの。年の差があるから左馬頭とティンゴーヌルが結ばれるのは難しいと思ったんだけど、うまい具合に二人は結ばれて、ティンゴーヌルは女の子と男の子を産んだわ。女の子はティンゴーヌルを継いで、男の子は左馬頭を継いだのよ」

「いくつ違いだったのですか」

「ティンゴーヌルが二十七で、左馬頭は四十だったわ。十三も違っていたのよ」

「左馬頭様は琉球の今帰仁按司になった小松の中将(ちゅうじょう)様(平維盛)の従弟(いとこ)だと聞いていますが、二人は再会したのですか」

「諸鈍の新三位(しんざんみ)の中将(平資盛)が今帰仁に行って小松の中将に会った二年後、左馬頭は浦上(うらがん)の小松の少将(平有盛)と一緒に今帰仁に行って再会を喜んだのよ」

「やはり、会っていたのですね」

「生前はその時の一度だけだったけど、亡くなってからは頻繁に会っていて、一緒にヤマトゥの京の都に行っているみたいよ」

六波羅(ろくはら)ですね。ヤマトゥで小松の中将様とお会いした時も兄弟たちが六波羅に集まって酒盛りをしていると言っていました」

「きっと、昔の栄光が忘れられないのでしょうね」

「話は変わりますが、ここにも倭寇が来たと思いますが、倭寇を追い返したのですか」とサスカサが聞いた。

笠利(かさん)で暴れていた倭寇が来たけど古見按司と協力して追い払ったのよ」

「倭寇相手に戦ったのですか」

「そうよ。戸口と古見のサムレーたちは皆、『香島(かしま)の剣』を身に付けているのよ」

「カシマの剣?」

「クミ姫様がヤマトゥに行って身に付けてきたの。あたしもクミ姫様から教わって、みんなに教えたのよ」

「『鹿島の剣』て聞いた事があるわ」とナナが言った。

「確か、修理亮(しゅりのすけ)から聞いたのよ。修理亮の生まれ故郷(じま)の香取の近くに鹿島はあって、どちらも古くから伝わる武芸があるって言っていたわ」

「香島(鹿島)の近くに香取という賑やかな港があったってクミ姫様から聞いた事があるわ」とティン姫が言った。

「クミ姫様もティン姫様も一千年以上も前の人ですよね。そんな古くから『鹿島の剣』はあったのですか」

「あったのよ。当時はまだ今のように曲がった刀はなくて真っ直ぐな剣だったけど、色々な技があって、それは刀にも応用できたのよ。それに、剣術だけじゃなくて、棒術や弓矢も身に付けたわ。『香島の剣』の修行は今も続いているのよ。左馬頭も戸口ヌルも代々、『香島の剣』を身に付けているわ」

「えっ、戸口ヌルさんが‥‥‥」とナナは驚いて、戸口ヌルを見た。

 戸口ヌルは笑ってうなづいた。

「倭寇を追い払った後、仕返しされなかったのですか」とサスカサが聞いた。

「されないわよ。倭寇のお船は沈んで、みんな死んじゃったもの。その後、倭寇は来なくなったわ」

 サスカサたちは七月十五日にユワンウディーでの再会を約束してティン姫と別れた。

「あなたたちがティン姫様とお話ができるなんて本当に驚きました」と戸口ヌルは言って頭を下げ、「七月十五日が楽しみです」と言って笑った。その笑顔から冷たさは消え、サスカサたちを見る目も変わっていた。

「あなたも武芸者だったのですね」とナナが戸口ヌルに言った。

「あなた方が刀を腰に差して現れたので、中山王のヌルは武芸を身に付けているのかと驚きましたが、皆さんが武芸の名人だという事はわかりました。お手合わせしたいのですが、それはできないのです。代々伝えられてきた『香島の剣』を他所(よそ)から来た人に披露する事は禁じられているのです」

「門外不出という事ですね」

「この(しま)を守るためです。でも、クミ姫様のお許しがあれば、古見ヌルが披露してくれるかもしれません」

「きっと、許してくれるわよ。古代から続いている『鹿島の剣』を見てみたいわね」

 山を下りてグスクに向かった。サグルーたちがいないので左馬頭に会う必要はないのだが、ティン姫様のお客様をこのまま帰すわけにはいかないと戸口ヌルが言ってグスクへと案内した。娘の若ヌルは左馬頭に知らせるために先に下りていった。

 グスクの大御門(うふうじょう)(正門)は東側にあって、坂道を登った先に櫓門(やぐらもん)があった。櫓の上に弓を持った二人のサムレーがいたが弓を構えてはいなかった。開け放たれた御門を抜けると土塁に囲まれた曲輪(くるわ)があり、サスカサたちが周りを見回していると二人のサムレーが現れた。

 戸口ヌルが左馬頭と跡継ぎの平太だと教えてくれた。左馬頭は五十年配、平太は二十代の後半で、平家の子孫だと言うが二人ともヤマトゥンチュには見えなかった。

 戸口ヌルが左馬頭にサスカサたちを紹介した。

「わたしの兄が改めて来ると思います。わたしたちが先に来たのはティン姫様に御挨拶に寄っただけですので、大袈裟な出迎えは無用です」とサスカサは言った。

 左馬頭は笑って、「若ヌルから聞きました。中山王のヌル様がティン姫様とお話していたと驚いていました」と言ってから、「ティン姫様のお客様として歓迎いたします。今晩はゆっくりしていってください。琉球の神様のお話などを聞かせてください」と言った。

「左馬頭様は神人(かみんちゅ)なのですか」

「まさか、わたしは神人ではありません。祖母が先々代の戸口ヌルだったので、幼い頃、祖母から神様の話を色々と聞かされたのです。先代ヌルの叔母からも聞いて、わたしも神様の声を聞いてみたいと思いましたがかないませんでした。従妹(いとこ)の戸口ヌルがティン姫様の声を聞いた時、羨ましいと思いました。今朝、従妹から中山王のヌル様が来るとティン姫様から知らされたと言われて、どうもてなしたらいいのか悩んでいたのです。従妹が中山王のヌル様が名前だけのヌルだったら追い返してやると言ったので任せたのです。中山王のヌル様がティン姫様の声を聞けるなんて思ってもいませんでした」

「ティン姫様の事はキキャ姫様からお聞きしました」

「何と、キキャ姫様の声も聞こえるのですか」と左馬頭は驚き、「湧川大主と一緒にいたヌルがキキャ姫様の声が聞こえるようで、今、鬼界島にいるようです」と言った。

「マジニを知っているのですか」

「湧川大主が万屋グスクにいた時、陣中見舞いに行って会いました。先代の中山王の娘だと聞いて驚きましたよ」

 サスカサたちは左馬頭に歓迎されて二の曲輪にある客殿に案内された。どことなくヤマトゥ風の建物だった。

 ナナとシンシンは警戒したが、ユンヌ姫が大丈夫と言ったので安心した。

「左馬頭は察度(さとぅ)の頃から中山王と交易していたの。山北王の支配下に入って中山王との交易は途絶えてしまったけど、また中山王と交易したいのよ。サスカサと親しくして中山王との交易を有利にしたいと思っているのよ」

「左馬頭は何を琉球に持って行ったのですか」とサスカサはユンヌ姫に聞いた。

「イーチュで作った布よ。それとブラ(法螺貝)とシビグァー(タカラガイ)ね。イーチュの布は中山王の王妃が織って侍女たちの着物になっているはずよ」

「お祖母様がここのイーチュで機織(はたお)りしていたなんて知らなかったわ」

「ここだけじゃないわ。古見のイーチュも首里に行くのよ」

「カン姫様のイーチュもですか」とシンシンが聞いた。

「笠利の湯湾のイーチュも古見に運ばれて、古見から浮島(那覇)に行っていたのよ。山北王の支配下になってからは今帰仁に行って、山北王の着物になっていたようだわ」

「これからはまた首里に行くようになるのね」とサスカサは楽しそうに笑った。

 その夜、一の曲輪にある左馬頭の屋敷で歓迎の(うたげ)が開かれた。左馬頭の屋敷は回廊に囲まれたヤマトゥ風の屋敷で、今帰仁で手に入れたというヤマトゥのうまい酒が振る舞われた。宴に出席したのは左馬頭と平太の他は女たちだった。戸口ヌルと若ヌル、他の女たちは皆、二百三十年前にヤマトゥから来た女官(にょかん)たちの子孫だという。すべてがそうではないが色白の女が多かった。

 戸口ヌルがティン姫様から聞いたと言って、左馬頭は初代の左馬頭の事を話してくれた。

 左馬頭行盛(ゆきもり)は平清盛の次男基盛(もともり)の長男で、三歳の時に父を亡くして、伯父の重盛(しげもり)に引き取られ、維盛(これもり)兄弟と共に育てられた。十三歳の時に叔母の徳子が高倉天皇の皇后になり、平家は絶頂期を迎え、左馬頭もこの世の春を謳歌する。ところが、二十歳の時、養父の重盛が亡くなってしまい、暗雲が立ち込めてくる。翌年、徳子が産んだ皇子が安徳天皇として即位するが、以仁王(もちひとおう)が平家打倒の令旨(りょうじ)を発する。各地の源氏が立ち上がり、従兄の維盛が大軍を率いて東国に出陣するが源氏に敗れて逃げ帰ってくる。

 二十二歳の時に祖父の清盛が亡くなると各地で反乱が起き、さらに大飢饉が襲って京の都は餓死者が溢れた。飢饉も治まりかけた二年後の四月、左馬頭は維盛と一緒に大軍を率いて北陸に出陣するが、倶利伽羅峠(くりからとうげ)で木曽義仲に敗れてしまう。兵力の大半を失った平家は立ち直れず、七月に都落ちをする。九州に向かうが九州も追われて海上をさまよい、ようやく十月に讃岐(さぬき)の屋島に落ち着いた。

 備中(びっちゅう)水島の戦いで木曽義仲軍を撃退して、播磨(はりま)室山の戦いで新宮(しんぐう)十郎軍を倒して、二十五歳の正月には再び、福原を奪回する。京都に戻れるかもしれないと夢を見るが、二月になって従兄の維盛が陣中から消えてしまい、一ノ谷の戦いに敗れて屋島に逃げ戻る。

 年が明けて寿永(じゅえい)四年(一一八五年)二月、屋島の戦いで敗れた平家は知盛(とももり)が拠点にしていた彦島に逃げる。そして三月、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ、栄華を誇った平家は滅亡する。

 左馬頭は従兄弟の資盛(すけもり)有盛(ありもり)と一緒に安徳天皇を連れて逃げ、四月の半ば、種子島(たねがしま)に来た時、安徳天皇が偽者だと気づくが、それを公表する事なく硫黄島(いおうじま)に隠れる。

 冬になって北風が吹き始めるとトカラの島々を経由して奄美大島を目指し、当時、赤木名はトゥクカーミーで栄えていたので寄らずに鬼界島に行く。鬼界島には平家に従っていた阿多(あた)平四郎がいて歓迎してくれたが、ヤマトゥから来る船が出入りするので危険だと言われ、加計呂麻島(かきるまじま)に隠れる事になる。

 加計呂麻島に隠れて十三年後、源頼朝の死を知り、もう追っ手は来ないだろうと左馬頭はサムレーや女官たち五十人余りを引き連れて古見に行った。古見でティンゴーヌルと出会いティンゴーに行き、ティン姫のウタキがある山の中腹を切り開いて屋敷を建てた。屋敷の裾にはサムレーや女官たちの家が建ち並んで新しい集落ができ、ティン姫の子孫たちが暮らす古い集落と合わせて戸口と名前を改めた。戸口は鬼界島と徳之島を結ぶ中継地として古見と共に栄えた。

 戸口に落ち着いて六十年くらいが経って、英祖(えいそ)に滅ぼされた浦添按司(うらしいあじ)(義本)の残党がやって来た。追い払う事はできたが屋敷が焼け落ちてしまい、新たに土塁で守りを固めたグスクを築いた。

 それから十数年して徳之島のトゥクカーミーが終焉して、戸口は静かになる。さらに百年後、ヤマトゥから南朝のサムレー、名和(なわ)五郎左衛門が来て笠利按司を倒し、赤木名を明国へ送る進貢船の拠点とする。その頃、琉球の察度も明国に朝貢を始め、明国の商品を求めて倭寇が琉球に行くようになる。倭寇たちは奄美大島の各地に拠点を作り、逆らう者たちは殺された。

「浦添按司の残党が攻めて来た時も、倭寇が攻めて来た時もティン姫様の言う通りにして追い払いました。先々代の中山王が明国との交易を始めた時はイーチュの布を持って浮島に行けと言われて、その通りにしてうまく行きました。山北王が来た時は山北王に従えと言われて、その通りにしました。イーチュの布が山北王と取り引きできたのはよかったのですが、湧川大主が鬼界島を攻めたのには参りました。鬼界島はティン姫様の故郷ですからね。湧川大主から援軍を頼まれたらどうしようと心配しましたが、援軍の要請はなくて助かりました。湧川大主に従っている振りをしながら湧川大主が負ける事を願っていたのです。キキャ姫様の活躍で湧川大主が鬼界島攻めをやめてくれたのでホッとしました。わしらはティン姫様のお陰で今まで生き延びて来られたのです。今回もティン姫様の言う通りに中山王に従います。戸口ヌルが跡継ぎを産まなかったらどうしようと心配しましたが、幸いにマレビト神様と出会って跡継ぎに恵まれました。若ヌルはまだティン姫様の声は聞こえませんが、まもなく聞こえるようになるでしょう」

 左馬頭はそう言って、サスカサの弟子たちと一緒に騒いでいる若ヌルを見て笑った。





万屋グスク



神崎(明神崎)



戸口




目次に戻る      次の章に進む



inserted by FC2 system