酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲







二つの今川家







 梅雨が始まった。

 今川家は二つに分かれたまま膠着(こうちゃく)状態に入っていた。

 三浦次郎左衛門尉が寝返った後、岡部美濃守の義弟の由比出羽守が孤立して、小鹿派に寝返った。美濃守としても寝返らせたくはなかったが、どうする事もできなかった。今川家は阿部川を境にして、二つに分かれてしまっていた。

 梅雨が始まってから五日後、備前守派だった天野兵部少輔が竜王丸派に寝返った。遠江にいる今川家の者たちが皆、竜王丸派となり、兵部少輔の犬居城を包囲されては寝返ざるを得なかった。兵部少輔は初めから本気で備前守を押していたわけではない。今川家を分裂させるために備前守派に付いただけだった。自分の本拠地が危なくなっている今、いつまでも備前守に付いて遊んでいる場合ではなかった。

 兵部少輔は簡単に備前守を捨てて竜王丸派の本拠地、青木城に移って来た。見捨てられた備前守は上杉治部少輔を頼らざるを得なくなったが、当の治部少輔は摂津守を説得に行くと出掛けたまま、青木城から戻っては来なかった。誰からも見放され、孤立した備前守は茶臼山城下の屋敷に閉じこもったまま毎日、やけ酒を浴びていた。

 竜王丸派からも、小鹿派からも、今川家の長老として迎えるから、との誘いが掛かったが、自分を見捨てた家臣たちのいる所に戻りたくはなかった。しかし、やがて気持ちが落ち着くとお屋形様の座を諦め、長老として今川家のために生きようと決心し、頭を丸めて棄山(きざん)と号し、小鹿派に迎えられた。棄山の山は富士山を現し、今川家の家督を富士山に例えて、自ら富士山を放棄して、禅境に入った事を意味していた。

 備前守は小鹿派となったが、茶臼山の裾野に陣を敷いている上杉治部少輔は相変わらず、中立のまま今川家をまとめようと張り切っていた。とは言っても、小鹿派の駿府屋形に行っては御馳走になり、竜王丸派の青木城に行っては御馳走になっているだけで、成果はまったく上がらなかった。

 早雲は早雲庵の縁側から降る雨を眺めていた。

 小太郎、富嶽、多米、荒木らも皆、戻って来ている。

 小太郎はお雪と一緒に浅間神社の門前町の家を引き払っていた。三浦一族の者たちがお屋形から消えて以来、葛山備後守は近くに敵の隠れ家があるに違いないと浅間神社の門前も捜し始めた。小太郎はお雪の身を案じて、しばらくの間、引き払う事にした。さらに、北川殿も長谷川屋敷に隠れている事が敵に知られて危険が迫り、朝比奈氏の本拠地の朝比奈城下に移っていた。お雪は北川殿を守るため、朝比奈城下の北川殿のもとに侍女として入っていた。

「備前守殿が小鹿派になったか‥‥‥」と早雲は縁側から雨を眺めながら言った。

「仕方あるまい」町医者姿の小太郎は縁側に寝そべっていた。「茶臼山は阿部川の東じゃからのう」

「これから、どうするんです」と久し振りに絵師に戻った富嶽が、早雲と小太郎の顔を交互に見た。

「遠江の者たちが戻って来れば、竜王丸派は圧倒的に有利な立場に立つ事となるのう」と小太郎は言った。

「しかし、戦を始めるわけには行かん。それこそ、葛山や天野の思う壷に嵌まる事となる」と早雲は言った。

「戦を起こさずに、今川家を一つにまとめるとなると難しい事じゃのう」と富嶽は言った。

「四つに分かれていたものが二つになった。後は二つを一つにまとめるだけじゃ」と早雲は気楽に言った。

「簡単に言うが難しい事じゃ」と小太郎は腕枕をしながら早雲を見た。「二つを一つにするという事は竜王丸殿をお屋形様にして、小鹿新五郎を後見にするという事になるが、そうなると、小鹿派は賛成するかもしれんが、摂津守派が黙ってはおるまい。竜王丸派がまた二つに分かれる事になるぞ」

「確かにのう。摂津守派ではなく、小鹿派と手を結べば良かった、と今になって思うが、あの時点の状況では竜王丸派と小鹿派が手を結ぶという事は難しかったからのう」

「そいつは無理じゃ。葛山の奴が絶対に反対するに決まっておる」

「ああ。手を結ぶのが難しいとなると、残るは葛山播磨と福島越前を仲間割れさせ、どちらかを寝返らす事じゃな」

「どちらを寝返らすのです」と荒木が富嶽の後ろから顔を出した。

 多米も一緒にやって来て話に加わった。

「さあのう」と早雲は首を振った。

「いよいよ、切札を使うか」と小太郎は早雲に聞いた。

「切札か‥‥‥」と早雲も頷いた。

「何です、切札とは」と多米が興味深そうに聞いた。

「長沢じゃ」と早雲は遠くを眺めながら言った。

「おお、そうじゃった。奴がおった。奴はまだ葛山と天野をつないでおるのか」と富嶽は聞いた。

「ああ。こちらの状況を葛山のもとに知らせておるようじゃ。葛山と天野は戦を起こしたい。しかし、葛山の側にいる福島越前守、両天野の側にいる岡部美濃守、朝比奈天遊斎、三浦次郎左衛門尉らは戦を起こす事に絶対、反対しておる。今の状態のままだと戦は起こらんじゃろうが、進展もないのう」

「その長沢とやらをどうするんです」と多米は聞いた。

「長沢を捕まえて、葛山と天野のたくらみを公表するのさ」と荒木が得意気に多米に説明した。

「いや。それはまずい」と早雲は言った。

「そうじゃ」と小太郎も言った。

「天野は今、味方じゃ。天野が何をたくらんでおろうとも、味方を分裂させるような事をするわけにはいかん」

「という事は長沢をどうするんです」

「長沢を捕まえて、葛山を威すんじゃよ」と小太郎は言った。

「成程、葛山を威すのか‥‥‥」と多米は唸った。

「でも、威してどうするんです。竜王丸派に寝返らせるのですか」

「いや」と早雲は誰もいない春雨庵を眺めながら言った。「葛山はそんな簡単に、こっちの手に乗るまい。長沢を捕えて威しても、そんな奴は知らんと言い張るに違いない。葛山よりも福島越前守を寝返らす」

「越前守か‥‥‥奴が寝返るかのう」と小太郎は言った。「もし、奴のもとに長沢を連れて行って、葛山の事を暴露(ばくろ)したとして、越前守が寝返るじゃろうか‥‥‥越前守は葛山が何をたくらんでおるか位、気づいておるじゃろう。今更、その事を聞かせたとて寝返るじゃろうかのう」

「うむ。確かに、葛山のたくらみなどお見通しの上で、葛山と組んでおるのかもしれんのう」

「となると、長沢は使えないという事ですか」と富嶽は言った。

「いや。利用する事はできるじゃろう」

「利用する?」と多米が聞いた。

「越前守が寝返りそうだと天野に言えば、葛山に伝わる」と早雲が答えた。

「しかし、かなりの証拠を揃えん事には難しいじゃろう」と小太郎は言った。「長沢は(だま)せても葛山を騙すのは難しい」

「うむ‥‥‥何か、いい方法がないものかのう」早雲は皆の顔を見回した。

「とりあえず、長沢の奴を捕まえてみるか」と小太郎が言った。「長沢が突然、消えたら、どうなるかのう」

「葛山がどう出るかじゃな。葛山と天野とのつながりが消えるわけじゃからのう」と富嶽は言った。

「いや、長沢だけじゃない。葛山と天野をつないでおるのは長沢だけじゃなく、山伏もおるわ」と小太郎は言った。

「そうか、山伏がおったか‥‥‥やはり、秋葉山の山伏か」と早雲は小太郎に聞いた。

「秋葉山の山伏もおるが、大宮の山伏で定願坊(じょうがんぼう)とかいうのが(かしら)のようじゃのう」

「富士山の山伏か」

「そうじゃ。初めの頃は長沢も活躍しておったようじゃが、今は長沢などおらなくなっても、葛山はたいして困らんのかもしれん」

「その定願坊とやらを捕まえたらどうです」と富嶽が小太郎に言った。

「定願坊か‥‥‥捕まえられん事もないが、捕まえれば、富士山の山伏、すべてを敵に回す事になるぞ」

「駿府の浅間神社も敵になるという事ですか」

「多分」

「そいつはまずいのう。手を出さん方が無難じゃな」

「という事は、長沢も定願坊とやらも放っておくという事ですか」と多米は聞いた。

「そうなるのう」

「竜王丸派の重臣たちは、これから、どうするつもりでおるのです」と富嶽は聞いた。

「それぞれが小鹿派の重臣たちに寝返るように誘いを掛けておるらしいが、どうにもならんようじゃのう。阿部川を境に二つに分かれたため、寝返れば孤立する事となる。越前守が寝返れば、蒲原、興津、庵原らも寝返る事になろうがのう」

「越前守か‥‥‥寝返らすのは難しい」と早雲は唸った。「しかし、いつまでも、このままでおるわけにもいかん。葛山はどうする気でおるんじゃ」

「葛山はこのままの状況が続いてくれた方がいいらしいな」と小太郎は言った。「新しいお屋形様に取り入って、かなりの領地を手にいれておるようじゃ。富士川より東は、ほとんど葛山のものと言ってもいい位じゃ。葛山にとっては、今川家が一つになろうと二つのままでも、どうでもいいんじゃろう。今の所は何もしておらんようじゃな、ここではな」

「本拠地の方は大忙しというわけか」

「らしいのう。富士川以東には、お屋形様の直轄地や朝比奈殿、岡部殿の領地もあったらしい。それらが皆、葛山の領地となったわけじゃ」

「成程。それじゃあ、越前守の領地も増えたのか」

「多少はな」

「じゃろうな。しかし、何とかせにゃならんのう」

 話し合いは続いたが、いい考えは浮かばなかった。

 蒸し暑い中、雨はしとしと降り続いていた。







 土砂降りのような雨の降る午後、北川殿の庭園内にある茶屋で、葛山播磨守と福島越前守の二人がお茶を飲みながら密談を交わしていた。

 床の間には、とぼけた顔をした布袋(ほてい)様を描いた掛軸が下がり、花入れには撫子の花が差してあり、香炉(こうろ)には香も焚かれてあった。

「この先、どうするつもりなんじゃ」と越前守が油滴天目(ゆてきてんもく)の茶碗の中を覗きながら聞いた。

「どうしたら、いいもんかのう」と播磨守は外の雨を眺めていた。

「このままでは、今川家はいつまで経っても分かれたままじゃ。こんな状態がいつまでも続いていたら、敵が攻めて来るかもしれん」

「敵?」と播磨守は越前守を見た。

「ああ。甲斐(かい)信濃(しなの)から敵が攻めて来ないとも限らん。関東からも攻めて来るかもしれん」

「関東は大丈夫じゃろう。お屋形様の身内じゃからな」

「しかし、このままでいいわけがなかろう。もし、関東が小鹿殿の後ろ盾となり、幕府が竜王丸殿の後ろ盾にでもなったら、ここ、駿河において戦が始まり、今川家はなくなるじゃろう」

「関東か‥‥‥関東も何かと大変のようじゃ。箱根を越えて、わざわざ来るとは思えんがのう」

「分からん。上杉治部少輔殿が自分の手に負えない事に気づけば、助っ人を呼ぶかもしれん」

「治部少輔殿か‥‥‥今の所はそんな動きもないようじゃ。助っ人を呼べば手柄を横取りされるからのう。治部少輔殿は自分の力で今川家を一つにしてみせると張り切っておるわ」

「無理じゃ」と越前守は香炉から立ち昇る煙を見ながら言った。

「治部少輔殿はそうは思っておらんらしいのう」

「まあいいわ。治部少輔殿は好きにさせておけばいい。それより、わしは小鹿派と竜王丸派が一つになればいいと思ってるんじゃが、どうじゃろう」

「越前守殿、今更、何を言い出すんじゃ。すでに、お屋形様は小鹿新五郎殿に決まったんじゃぞ。竜王丸派と手を組むという事は、竜王丸殿がお屋形様となり、新五郎殿はその後見という事になってしまうのじゃぞ」

「分かっておる。それでもいいではないか。竜王丸殿はまだ六つじゃ。成人なさるまでに十年近くある。十年もあれば、新五郎殿をお屋形様にする事もできるじゃろう」

「そう、うまく行けばいいがのう‥‥‥」

「考えてもみい。竜王丸派の重臣の中の大物と言えば、天遊斎殿と和泉守殿じゃろう。二人共、五十を過ぎておる。後、十年も生きられるとは思えん。その二人がいなくなれば、後の者たちは大した事はない」

「うむ。しかし、遠江の者たちも竜王丸派なんじゃぞ」

「遠江勢は、お屋形様が関東に近づき過ぎて、幕府の反感を買う事を恐れているんじゃ。新五郎殿が今川家をうまくまとめて行けば、新五郎殿に付いて来ると思うがのう。それに、遠江はこれからじゃ。これからも遠江には進撃しなくてはなるまい。その時に恩を売っておけばいいんじゃ」

「うむ。そうかもしれんが‥‥‥いや、早雲がおる。あいつは曲者じゃ」

「早雲か‥‥‥十年もあれば何とかなるじゃろう」

「まあな‥‥‥しかし、今更、竜王丸派と手を結ぶ事などできるかのう」

「その早雲を使えば、何とかなるとは思うがのう。竜王丸派の中で、どうしても摂津守殿を押している者と言えば岡部兄弟だけじゃ。他の者は竜王丸殿をお屋形様にし、新五郎殿を後見としても文句を言う奴はおるまいと思うがの」

「うむ。早雲を使うか‥‥‥しかし、その早雲とどうやって接触を持つんじゃ」

「そこは、播磨守殿の所にいる山伏を使えばわけないじゃろう」

「うむ。しかし、早雲が乗って来るかのう」

「乗って来ると、わしは睨んでおる。所詮、竜王丸派は誰かと組まなければならんのじゃ。摂津守と組んでいたら、いつまで経っても今川家は一つにならん。一つにするには竜王丸派と小鹿派が組む以外にはない」

「そうじゃのう。一つにするには、それしかないのう。しかし、新五郎殿がそれで納得するかのう」

「新五郎殿はわしが説得するわ。そなたは早雲と話を付けてくれんか」

「ふむ。まあ、やるだけはやってみるが、早雲がのこのこ、ここまでやって来るかのう」

「いや、ここまで来なくても、浅間神社でもどこでも構わん。何としてでも早雲と会って話をまとめなくてはならん。まごまごしていると、それこそ、関東から軍勢が来て、戦を始めなくてはならなくなるかもしれん。戦が始まってしまえば、もう取り返しのつかない状況となってしまうじゃろう」

「やってみよう」と播磨守は言った。

「頼むぞ。わしはさっそく、お屋形様のもとに行って説得するわ」

「うむ。わしは早雲を捜し出して話を付けてみるか」

 越前守は茶屋を出ると傘をさし、そのまま、お屋形様の屋敷に向かった。

 越前守が消えると入れ代わるように、定願坊が茶屋の縁側に腰を下ろした。

 定願坊はずぶ濡れだった。

「そなた、いたのか」と播磨守は定願坊を見た。驚いている風でもなかった。

「話は聞いた」と定願坊は言った。

「そうか‥‥‥」

「早雲は今、早雲庵におる。風眼坊も一緒じゃ」

「そうか‥‥‥」

「早雲と会えば、越前守殿の言う通りになるじゃろう」

「早雲も越前守と同じ事を考えておると言うのか」

「ああ、今川家のために摂津守殿を捨てるじゃろうな」

「じゃろうのう‥‥‥」

「どうする」と定願坊は聞いた。

「うむ‥‥‥まだ、早いのう」

「いささか」と言って、定願坊は気味悪い笑みを浮かべた。

 播磨守はゆっくりと頷いた。

「いっその事、早雲を消すか」と定願坊は言った。

「いや、それはまずい。消すのはいつでもできる。しばらくは早雲の動きを見張っていてくれ」

「うむ」

 定願坊は消えた。

 播磨守は一人、茶屋で考えていた。

 今川家は二つに分かれ、阿部川を挟んで対峙しているが、戦をしようという者はいなかった。戦にならなくても、今の状況が続くだけでも播磨守にとっては有利だった。竜王丸派と小鹿派が結ぶのは具合が悪い。その二派が一つになれば、今川家が一つになるのと同じだった。まだ時期が早い。せめて、今年一杯は今の状況のままでいて欲しいと播磨守は願っていた。一年あれば、富士川以東を実力を以てまとめる事ができる。今、今川家が一つになってしまえば、せっかく手に入れた領地を返さなければならなくなる。何とかしなければならない。このまま放っておいたら、竜王丸派と小鹿派が一つになるのは時間の問題だった。

 何とかしなければならない‥‥‥

 しばらく、雨を眺めながら茶屋で冷めたお茶をすすっていた播磨守は一人、ニヤリと笑うと屋敷の方に戻って行った。

 一方、お屋形様、小鹿新五郎と会っていた福島越前守は、ついさっき、北川殿で播磨守に言った事など、すっかり忘れたかのような変貌振りだった。

 上段の間に眠そうな顔をして座っている新五郎の前に伺候すると、人払いをして、「お屋形様、播磨守殿には充分、御注意なさった方がよろしいですぞ」と言った。

「分かっておる。わしの目も節穴ではない。播磨が裏で何かをたくらんでいる事くらい気づいておるわ」

「はい。しかし、今回は容易ならざる事をたくらんでおりますぞ」

「何じゃ。勿体振らずに早く申せ」

「播磨守は竜王丸派と手を組もうとしております」

「何じゃと。竜王丸派と手を結ぶじゃと?」

「はい。播磨守は早雲とひそかに会っている模様ですな」

「播磨が早雲に?」

「配下の山伏を使って、ひそかに‥‥‥」

「播磨が竜王丸をお屋形にし、わしをお屋形の座から降ろすとたくらんでおると言うのか」

「今川家のためには、それしかないと‥‥‥」

「播磨め、裏切りおって‥‥‥何とかならんのか、せっかく、お屋形になれたというのに、ここから降りろと言うのか。わしは嫌じゃ」

「分かっております。そこで、お屋形様に相談したい議がございます」

「何かいい方法があるのか」

 越前守は頷いた。「関東の力をお借りします」

扇谷(おおぎがやつ)上杉家か」

「はい。扇谷上杉家に今川家の内紛を知らせれば、岩原(南足柄市)の大森寄栖庵(きせいあん)殿が来られる事でしょう。しかし、大森殿は葛山殿とは同じ一族です。大森殿が駿府に来れば、益々、播磨守の勢力が強くなると言えましょう。そこで、江戸城の太田備中守(びっちゅうのかみ)殿に来ていただきます」

「太田備中守にか」

「はい。備中守殿は関東で有名な武将です。備中守殿を仲裁役として今川家をまとめていただきます。勿論、お屋形様は新五郎殿としてまとめていただきます」

「備中守に頼むのか‥‥‥そう、うまく行けばいいがのう」

「備中守殿なら、うまくまとめてくれる事でしょう」

 越前守は葛山播磨守には竜王丸派と手を結ぶと言ったが、本気で思っていたわけではない。最終的には、そうなるに違いないとは思っていても、播磨守同様、時期がまだ早いと思っていた。播磨守にその事を言えば、播磨守は絶対に邪魔をするだろうと睨み、牽制(けんせい)のつもりで言ったのだった。本気で竜王丸派と結ぶつもりなら、播磨守の力を借りなくても一人ででもできる。越前守の配下にも熊野の山伏がいて暗躍していた。早雲の居所など播磨守に頼まなくても捜し出す事は簡単だった。

 どうして、駿河の国に紀伊(きい)の国(和歌山県)の熊野の山伏がいるのかというと、当時、熊野の山伏は山の中だけでなく、海路も利用して各地の信者を集めていた。伊勢の五ケ所浦のように各地の要港には、必ず、熊野山伏の拠点があり、活動していた。当然、駿府の海の玄関口である江尻津にも熊野山伏はいて、支配者である越前守のために働いている者もいたのだった。

 越前守は播磨守のように、今の時期を利用して領地を拡大しているわけではなかったが、別の所で稼いでいた。堀越公方の執事、上杉治部少輔が駿府に在陣して、すでに二ケ月が経ち、彼らの兵糧(ひょうろう)は伊豆の国から海路で江尻津(清水港)まで運ばれて来ていた。さらに、駿府屋形に集まっている兵たちの食糧も、各地から江尻津に入って来ている。江尻津を支配しているのは越前守だった。越前守は江尻津が各地からの船で賑わえば賑わう程、稼げるというわけだった。今川家が一つになってしまえば、上杉治部少輔は勿論の事、駿府屋形の兵たちも引き上げてしまう。後もう少し今の状況が続けば、伊豆の三島大社との取り引きの事もうまく行く。葛山播磨守と同様、越前守も今年一杯は、今の状況が続く事を願っていた。







 越前守が帰った後、小鹿新五郎は離れの書院に戻った。

 書院には(なぎさ)姫、千里(ちさと)姫、(かつら)姫、若菜(わかな)姫の四人の側室が首を長くして待っていた。

「お屋形様、いかがなさいました。浮かない顔をしてらっしゃいます」と千里姫が扇子を扇ぎながら言った。

 部屋の中には高価な香が焚かれ、白粉(おしろい)の匂いと混ざって妖艶(ようえん)さをなお一層、引き立てていた。

「何でもない」と新五郎は言うと料理の並んだお膳の前に腰を下ろした。

 新五郎がお屋形様になって二ケ月が過ぎていた。二ケ月も過ぎたが、お屋形様らしい事は何もしていなかった。した事といえば、唯一、先代のお屋形様の葬儀の喪主になった事位だった。念願のお屋形様になれたら、あれをやろう、これをやろうと新五郎なりに色々と考えてはいたが、実際、お屋形様になっても、そんな事は一切できなかった。葛山播磨守と福島越前守の二人が何もかも決めてしまい、新五郎の出る幕はまったくなかった。

 しかも、播磨守と越前守がもたもたしている隙に、竜王丸派は摂津守派と手を結び、竜王丸をお屋形様にし、摂津守を後見として、もう一つの今川家を作ってしまった。今川家が二つに分かれてしまったというのに、播磨守と越前守は何もしないでいる。新五郎が、戦を始めて、さっさと竜王丸派を倒せ、と命じても、二人は生返事をするばかりだった。

 二人が言う事を聞かないのなら自分の力で何とかするしかないと、新五郎は手下の者を使って竜王丸を亡き者にしようとたくらんだが、すべて、失敗に終わっていた。竜王丸を殺すために送った刺客(しかく)は皆、戻っては来なかった。仕方なく、新五郎は浅間神社の山伏を使おうと思ったが、浅間神社は今川家の家督争いには(かか)わりたくないと断って来た。

 新五郎は成す(すべ)もなく、毎日、酒と女に(おぼ)れていた。政治的な事は何一つとして思うようにはならないが、酒と女に関しては不自由しなかった。播磨守も越前守も、その他の重臣たちも次々に綺麗な娘を新五郎のもとに届けて来た。屋敷内の常御殿には、彼らから送られて来た綺麗所が二十人近くも暮らしている。

 新五郎は今年、三十歳の男盛りだった。家族は未だに小鹿の屋敷にいる。妻と三人の子供がいた。八歳になる長男の小五郎と五歳と二歳の女の子だった。このお屋形の屋敷に移ってから家族のもとには一度も帰っていなかった。

「お屋形様、さあ、どうぞ」と若菜姫が酒を注ごうとした。

「おう」と酒盃(さかずき)を手にすると新五郎は注がれた酒を飲み干した。

「若菜、お前も飲め」と新五郎は酒盃を若菜姫に渡した。

「あい」と若菜姫は両手で酒盃を受けた。

 若菜姫は興津美作守(おきつみまさかのかみ)から贈られて来た、ぽっちゃりとした二十歳の娘だった。控えめな性格だったが、情熱的で、着物がはち切れんばかりの肉体を誇っていた。新五郎が今、一番お気に入りの娘だった。

 新五郎の右隣に座っている娘は渚姫といい、葛山播磨守から贈られた娘で、静かな雰囲気を持った別嬪(べっぴん)だった。若菜姫が来るまでは一番のお気に入りだったが、若菜姫の肉体に敗れて、二番になっていた。

 若菜姫の隣は千里姫、福島越前守からの贈りもので、目のくりっと大きな娘で歌がうまかった。その隣は桂姫、庵原安房守からの贈りもので、小柄で可愛い娘だった。この四人の側室が、今の新五郎のお気に入りで、一日中、側から離さなかった。

 無言のまま新五郎は四人の娘に酒盃を回すと、立ち上がって縁側に出て、広い庭を眺めた。

 土砂降りは治まったが、雨は降り続いていた。

 女たちは黙って新五郎の後姿を見つめていた。

「太田備中守か‥‥‥」と新五郎は(つぶや)いた。

 備中守の噂は駿河にも聞こえていた。

 扇谷(おおぎがやつ)上杉氏を支えているのは、家宰(かさい)(執事)である備中守の力だと言われている程の武将だった。ただ、戦に強いだけの武将ではない。足利学校で勉学に励み、和歌に堪能で、城の縄張りも巧みにこなすという文武両道の武将だった。その備中守を味方に付ければ、今川家を一つにまとめ、正式にお屋形様になれるかもしれない。備中守が後ろ盾になってくれれば、何とかなるような気がする。竜王丸派の朝比奈氏も三浦氏も岡部氏も、備中守の言う事なら聞くに違いない。ただ、扇谷上杉氏に応援を頼んだとして、備中守が、わざわざ、駿府まで来てくれるかどうかが問題だった。備中守ではなく、岩原の大森寄栖庵(きせいあん)が来たのでは葛山播磨守の思う壷となってしまう。何としてでも、備中守を呼ばなければならなかった。

「お屋形様、いかがなさいました」と桂姫が声を掛けた。

 新五郎は返事をしなかった。

 どうしたら、備中守を呼ぶ事ができるか‥‥‥

 福島越前守に頼むか。

 越前守の船で直接、備中守の江戸城まで行ってもらえば何とかなるのではないか‥‥‥もし、来てくれるとしても、江戸からここまで来るには時間が掛かる。兵を引き連れて来れば、かなりの時間が掛かるだろう。早いうちに江戸城に使いを送った方がいい。そう決めると新五郎は女たちには声も掛けず、主殿の方に向かった。大声で執事の名を呼ぶと、越前守をすぐに呼べと命じた。

 一時程後、晴れ晴れとした顔をして、新五郎は書院に戻って来た。すでに、前のお膳は片付けられて、新しいお膳が並べられ、女たちも別の着物に着替えていた。

 機嫌よく女たちを眺めると新五郎は床の間の前の上座に腰を下ろし、「喉が渇いた。酒じゃ」と酒盃を渚姫の前に差し出した。

「いい気分じゃ」と言うと新五郎は急に笑い出した。

 女たちも新五郎の顔を見ながら、わけも分からず笑っていた。

「千里、一舞、舞ってくれ」

 千里姫は笑いながら頷くと立ち上がり、次の間に行って扇を広げた。

 〽忍ぶれど 色に()でにけり我が恋は~

            色に出でにけり我が恋は~

 千里姫は流行り歌を歌いながら、しとやかに舞った。

「最高じゃ」と新五郎は手をたたいて喜んだ。

「次は誰じゃ」

「あたし、踊りなんて駄目です」と若菜姫が手を振った。

「踊りじゃなくても構わんぞ」と新五郎は笑って若菜姫の懐に手を差し入れた。

「嫌ですわ、お屋形様」と若菜姫は言ったが、体を新五郎に擦り寄せていた。

「渚、次はそちじゃ」と新五郎は若菜姫の乳房を揉みながら言った。

「あたしも踊りはできません。お琴ならできますけど」

「おお、そちの琴が聞きたくなったわ」

「でも、お琴を取りにいかないと‥‥‥」

「なに、すぐに用意させるわ。いや、向こうに移って、皆で騒ごう。今宵は夜明けまで飲み明かそうぞ」

 新五郎は四人の女を連れて常御殿の広間に移り、側室たち全員を呼び集めて、夜更けまで機嫌よく飲んで騒いだ。

 新五郎にとって、まさに極楽だった。女たちは皆、新五郎の言いなりに酒に酔い、高価な着物を脱ぎ散らかし、あられもない姿で騒いでいる。この光景を誰かが見たら、もはや、今川家も終わりだと思うに違いなかった。

 実際に、この光景を覗いている者がいた。

 天井裏に忍び込んで、成り行きを見守っていた小太郎だった。

「情けない事じゃ」と小太郎は(つぶや)いた。

 そして、しばらくして、「(うらや)ましい事でもある」と言った。

 しかし、竜王丸殿をあんなお屋形様には絶対にしてはならないと思った。

 (あき)れ果て、小太郎が引き上げようとした時、小太郎の他にも天井裏に忍び込んでいた者がいる事に気づいた。小太郎は手裏剣を手に持つと曲者(くせもの)に近づいた。

 相手も小太郎の事に気づき、刀の(つか)に手をやった。

定願坊(じょうがんぼう)か」と小太郎は小声で言った。

「風眼坊じゃな」と定願坊は言った。

「どう思う」と風眼坊は下を示しながら聞いた。

「年寄りには目の毒じゃ」

「まさしく」

「新五郎殿は播磨守殿の思いのままじゃ」

「うむ。播磨守はわしの命を狙っておるのか」

「いや」と定願坊は首を振った。

「そうか。それで、どうする」

「どうするとは」

「やるか」

「いや。わしらがやり合ったとしても、喜ぶのは下におられるお方だけじゃ」

「確かに」小太郎はそう言うと定願坊に背を向けた。

 定願坊は攻撃を仕掛けて来なかった。

 小太郎は誰もいない部屋に降りると御殿から出て、素早く土塁を乗り越え、屋敷から消えた。

 残っていた定願坊は刀の柄から手を放すと、額の汗を拭った。

「できる‥‥‥」と呟くと、しばらく、小太郎のいた所を見つめていたが、やがて、身を伏せると下の光景を覗いた。

 女たちは皆、酔っ払っていた。すでに、伸びている女たちもいた。中には女同士で体を撫で合っている者もいる。あちこちから嗚咽(おえつ)の声が聞こえて来る。新五郎は裸の女を三人抱えて大笑いしていた。

「たまらんわ」と言うと定願坊も屋根裏から消えた。







 雨は毎日、降っていた。

 お雪の吹く笛の音が朝比奈城下の天遊斎の屋敷から響いていた。

 竜王丸と北川殿が駿府屋形から小河(こがわ)の長谷川法栄(ほうえい)の屋敷に移り、さらに、天遊斎の屋敷に移ってから、すでに三ケ月が過ぎていた。

 竜王丸派と摂津守派が一つになった時、北川殿は竜王丸を連れて摂津守の青木城に移った。しかし、それは一日だけだった。前線に近い青木城は危険だという事で、すぐに小河の法栄屋敷に戻ったが、北川殿が小河屋敷にいたという事が小鹿派の者たちにまで知れ渡り、危険が迫って来た。未だに竜王丸を亡き者にしようとたくらんでいる者がいるのだった。また、天野氏などは竜王丸を遠江にさらって、遠江に今川家を新しく作ろうと本気で考えている。早雲は北川殿母子を朝比奈川の上流の山の中にある朝比奈郷に隠す事にした。

 朝比奈郷は古くから朝比奈氏の本拠地だった。鎌倉時代に祖先の左衛門尉(さえもんのじょう)が朝比奈郷の地頭職(じとうしき)に就いて朝比奈姓を称し、今川家が駿河の守護職(しゅごしき)になった早い時期に被官となり、以後、代々今川家の重臣の地位に就いていた。

 天遊斎は家督を嫡男(ちゃくなん)に譲って隠居していたが、嫡男の肥後守(ひごのかみ)がお屋形様、義忠と共に戦死してしまったため、のんびり隠居などしている場合ではなくなっていた。家督は三男の左京亮(さきょうのすけ)という事に決まったが、左京亮はまだ二十歳で、独り立ちするには少々無理があった。しばらくの間は天遊斎が補佐しなければならなかった。

 朝比奈郷に移った北川殿は天遊斎の隠居屋敷に入った。天遊斎の隠居屋敷は朝比奈屋敷の北東の隅にあり、本屋敷と同様に濠と土塁に囲まれていた。北川殿を迎える事となって天遊斎は本屋敷の方に移り、北川殿母子は駿府屋形の北川殿にいた時のように、北川衆に守られて暮らしていた。

 隠居屋敷は本屋敷に隣接していたが、濠と土塁で隔てられて完全に独立していた。敷地内には天遊斎が客と会う時に使う表屋敷、普段、寝起きしている奥屋敷と広い台所を中心に、湯殿(ゆどの)(うまや)(さむらい)部屋、蔵などが建っていた。

 北川殿母子は二間ある奥屋敷に入り、侍女と仲居たちは表屋敷に入った。侍女の中には春雨とお雪の二人もいて、竜王丸の遊び相手として寅之助も一緒に来ていた。北川衆は以前のごとく交替で屋敷の門番に当たった。北川衆の中には家族と共に移って来ている者もいて、近くに家を借りて通っていた。

 ここでも、小河屋敷にいた時と同じように北川殿は身分を隠し、京から下向して来た公家の母子という事になっていたため、あまり縛られる事もなく、のんびりと暮らす事ができた。かつての北川衆や侍女や仲居たちに囲まれて暮らしていても、以前のように出掛ける時は、どんな近くでも牛車(ぎっしゃ)に乗るという事もなく、自分の足でどこにでも行けた。どこにでもと言っても、あまり遠くまでは行けなかったが、朝比奈屋敷の回りの城下町や草原や田畑などを子供たちと一緒に散歩するのは楽しかった。草花を自分の手で摘んだり、蝶やトンボを追いかけたり、今まで想像するだけで、できるわけないと諦めていた事が、駿府を出てからは可能となっていた。お屋形様の突然の死は悲しかったが、別の生き方というものを味わえたのは、北川殿にとって充分な慰めになっていた。

 梅雨となり、毎日、雨降りの日が続いていても、北川殿にとっては傘を差して雨の中を散歩するのも楽しみの一つだった。そんなある日、久し振りに早雲が孫雲と才雲を連れてやって来た。石脇の早雲庵から朝比奈城下までの距離は三里程だった。一時もあれば、すぐに来られる距離だった。

 北川殿はお雪と長門(ながと)の二人を連れて、小雨の中を傘を差して散歩に出掛ける所だった。三人の後ろには北川衆の清水と久保の二人が少し離れて見守っている。

 北川殿は隠居屋敷の門を出ると大通りを南に向かい、朝比奈屋敷の門の前を通り過ぎた頃、正面からやって来る早雲たちと出会った。北川殿は早雲の姿を見ると嬉しそうに手を振った。早雲も元気そうな妹の姿を見ながら手を振り返した。駿府屋形にいた頃に比べて、最近の北川殿は心から嬉しそうに笑っていた。早雲に手を振っている今の北川殿の笑顔も、うっとおしい梅雨空とは関係なく、ほんとに楽しそうだった。

 北川殿は早雲を伴って朝比奈川の河原に向かった。いつもの散歩の道だった。

 朝比奈氏の本拠地である朝比奈城は北、西、南の三方を朝比奈川に囲まれた山の上にあった。城下は朝比奈城の南麓にあり、西側を北から南へ、南側を西から東へと朝比奈川が曲がって流れ、東側は野田沢川が北から南に流れ、朝比奈川と合流していた。三方を川、残る北側に城のある山に囲まれた一画が朝比奈氏の城下だった。

 朝比奈屋敷と朝比奈氏の菩提寺を中心に東側に武家屋敷が並び、広い弓場や馬場があり、西側は商人や職人たちの住む町となっていた。朝比奈川の河原には二つの市場があって、市の立つ日は賑やかだった。しかし、駿府とは比べものにならない程、ささやかな城下だった。城下内には田畑や草原もかなりあり、のどかな雰囲気だった。

 北川殿がよく来る河原は西側の河原で、人影もなく静かな所だった。草花が豊富にあって、向こう岸にはずっと山々が連なっていた。

 北川殿は着物が濡れるのも構わず、早雲と一緒に河原の濡れた草木の中に入って行った。仕方なく、お雪は後を追ったが、後の者たちは道端から北川殿たちを見守っていた。

「兄上様、今川家はどうなって行くのでしょう」と北川殿は突然、聞いた。

「大丈夫です」と早雲は言ったが、妹の顔を見てはいなかった。

「兄上様、わたし、竜王丸の母として何かをしなければならないんじゃないかって、最近、思うようになりました。わたし、自分では何もできないと諦めておりました。兄上様や長谷川殿、朝比奈殿など重臣の方々に頼らなければ、生きて行けないと思っておりました。でも、最近、わたしにも何か、できるんじゃないかって思うようになりました。今まで、わたしは何かをする前に、もう諦めておりました。自分の意志で何かをしようと思った事なんてありませんでした。でも、そんなわたしでも、何かをやろうと思えば、できるんじゃないかって思うようになりました‥‥‥」

 早雲は北川殿の横顔を見た。お屋形様が亡くなられてから強くなられたものだと思った。お屋形様が生きている頃は、他所から嫁いで来た嫁という感じだったが、今の北川殿は完全に今川家の一族の一人として今川家の事を思っていた。竜王丸の母親として立派に生きて行こうとしていた。

「お強くなられましたな」と早雲は言った。

「いいえ、少しも‥‥‥兄上様、兄上様は弓の名手だと聞いております。わたしに是非とも弓を教えて下さい」

「えっ!」と早雲は驚いて妹を見た。まさか、そんな事を言って来るとは思ってもいなかった。

「北川殿が弓術を習いたいと」と早雲は聞き返した。

 北川殿は恥ずかしそうに頷いた。「わたし、駿府のお屋敷が襲撃された時、自分の無力さが身にしみました。春雨様やお雪様は自分を守る(すべ)を知っております。同じ、女の身でありながら、わたしは自分を守る事もできません。お屋形様のお亡くなりになってしまった今、わたしは竜王丸たちを守らなければなりません。そして、今川家も‥‥‥今のわたしに今川家を守るなんて、大それた事は言えません。せめて、何かが起こった時のために、子供たちだけは守ってやりたいと思っております。お願いです。わたしに弓術を教えて下さい」

「それは構いませんが‥‥‥」と早雲は答えた。

「兄上様、ほんとですのね」と北川殿は嬉しそうに笑った。「教えて下さるのね」

 早雲は妹を見ながら頷いた。「弓術は身を守るだけでなく、心を落ち着けるのにも役に立ちます。北川殿が、どうしてもとおっしゃるのなら、お教え致しましょう」

「まあ、嬉しい。わたし、今、お雪様より小太刀(こだち)も教わっているんですよ」

「ほう、お雪殿から小太刀を‥‥‥そうでしたか」

 北川殿は本気で身を守る術を習おうとしていた。まるで、別人を見ているかのような思いで早雲は妹を見ていた。

 朝比奈屋敷に戻ると、早雲はさっそく弓場(ゆば)に交渉に出掛けたが、女は立ち入り禁止だと断られた。北川殿の名を出せば何とかなるとは思うが、これから先の事を考えると、弓場を使わせてもらうために正体をばらすのはまずかった。早雲はさっき北川殿と行った河原に出掛けた。仕方ないので、ここを弓場にしようと思った。ここは人影がないので、北川殿の弓術の稽古には丁度、具合がいいと言えた。ただ、雨の降り続く梅雨のうちは無理だった。梅雨が上がったら、ここに的を作って北川殿に教えようと思った。

 その日の晩、早雲たちは天遊斎の本屋敷に招待された。北川殿も招待され、天遊斎の三男、左京亮と共に軽く酒を飲み、食事を御馳走になった。

 食事も済み、北川殿と左京亮の帰った後、早雲は客間で天遊斎と二人きりで会っていた。

「天遊斎殿、太田備中守殿をどう思います」と早雲は天遊斎の()てた薄茶を飲みながら聞いた。

「どうとは」と天遊斎は突然の質問に驚いたようだった。

「小鹿新五郎殿は、どうやら、備中守殿を後ろ盾として駿府に呼ぶ模様です」

「何じゃと。新五郎殿が太田備中守殿を‥‥‥とうとう、関東の助けを借りるのか」

「らしいですねえ」と早雲は他人事のように言った。

「そうか‥‥‥備中守殿か‥‥‥備中守殿が小鹿派に付いたら竜王丸殿にとっては難しい事になりそうじゃ」

「やはり、そうですか‥‥‥」

「しかし、備中守殿は公平な目を持っているとの噂じゃ。もしかしたら、公平に裁いてくれるかもしれん」

「公平な目、ですか‥‥‥天遊斎殿は備中守殿に会った事はございますか」

「いや」と天遊斎は首を振った。「会った事はないが」

「そうですか。わたしは一度だけ、会った事がございます。会ったと言っても、お互いに名乗ったわけではなく、一言、二言、言葉を交わしただけでしたが、わたしは、あの時の武将は備中守殿だと確信を持っております。確かに、天遊斎殿のおっしゃる通りに、公平なお人のようにお見受けしました」

「そうじゃろう。備中守殿は噂通りの立派なお方に違いない。備中守殿が、この地に来る事となれば、小鹿派では大歓迎する事じゃろう。備中守殿が小鹿派の言いなりになるとは思わんが、我らとしても言い分だけは聞いてもらわん事にはのう」

「何とかして話し合いの場を持ちたいですね」

「うむ、頼むぞ。こういう場合、自由に動き回れる早雲殿が唯一の頼みじゃ」

「はい。やるだけの事はやってみますが、新五郎殿とは別に、葛山播磨守殿も扇谷(おおぎがやつ)上杉氏に誘いを掛けております。播磨守殿は備中守殿ではなくて、岩原城の大森寄栖庵(きせいあん)殿とかいうお方を駿府に呼ぶ事をたくらんでおるようです」

「大森寄栖庵殿を呼ぶのか」

「そのようです。その寄栖庵殿というお方はどんな人なのです」

「扇谷上杉家の重臣じゃ。太田備中守殿が有名になり過ぎて、隠れた存在となっておるが、なかなかの武将のようじゃのう。ただ、葛山氏とは同族じゃ。駿府に来たとしても、備中守殿のように公平に物を見るという事は期待できそうもないのう」

「そうですか‥‥‥どっちが来るかによって、こちらの出方も変わって来ますね」

「そうじゃのう。寄栖庵殿が来られたら、余計、面倒な事になりそうじゃ。備中守殿が来る事を願うしかない」

「こちらからも備中守殿に誘いを掛けたらどうです」と早雲は言った。

「いや、それはまずい。両方から関東に助けを求めたら、今川家の威信に拘わる事になる。助けを求めたのは小鹿派で、竜王丸派は他所の助けを借りなくても自力で解決する事ができると思わせておかなければならん。関東に借りを作ると竜王丸殿がお屋形様になった時、面倒な事に巻き込まれる可能性が出て来るじゃろう。借りを作るにしても、なるべく、小さい方がいい」

「成程、そうですね。相手の出方を見て対処して行った方がいいですね」

 早雲は天遊斎から、今までの今川家の事を色々と聞き、夜遅くまで語り合っていた。





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