酔雲庵


酔中花

井野酔雲





11




 散らかっている部屋の中で、久美子にポーズを取らせて、絵に熱中している鉄蔵。

 台所では鉄蔵の娘、お辰が夕食の支度をしている。

 久美子はポーズを取りながら、乱雑に壁に貼り付けてある何枚かの絵を見ている。

「ねえ」と久美子は鉄蔵に聞いた。「あなた、有名な絵画きなの?」

 鉄蔵は熱心に筆を運んでいる。かたわらには失敗したらしい久美子を描いた絵が散らかっている。

「俵屋宗理なんて聞いた事もないわ。でも、凄い絵を描くのね」

「駄目だ!」鉄蔵は描いていた絵を横に捨てる。

「どうして、駄目なの? よく描けてるじゃない」

 鉄蔵、新しい紙にまた描き始める。

「父ちゃん、ご飯」とお辰が台所から叫んだ。

 鉄蔵、返事もしないで絵を描いている。

「ご飯だってば!」とお辰は部屋に入って来る。

「うるせえ、後だ!」

「ダメ! 今」

「うるせえ!」

「ご飯!」

「もう少しよ。後にしましょう」と久美子が口を出す。

「駄目よ。そんな事言ったら、夜が明けちゃうわ」とお辰は鉄蔵から筆を取り上げる。

「こら!」

 鉄蔵はお辰から筆を取り返そうとするが、お辰はうまく逃げる。

 鉄蔵、描きかけの絵を丸めて、お辰にぶつける。



 三人はお膳を囲んで夕食を食べている。

「今日ねえ」とお辰が言った。「次郎吉に口説かれちゃった。あたしと一緒になりたいんだってさ」

「ふん。うるせえから、さっさと嫁に行け」

「父ちゃん、一人にして行けるわけないじゃない」

「馬鹿め、俺がおめえなんか小娘の世話になんかなるか」

「だけどね、あたし、あんな女々しい男なんか大嫌いなのよ」

「その次郎吉ってえな、どこのどいつだ?」

「呉服屋の若旦那じゃない」

「あのふやけた野郎か、あれがおめえと一緒になりてえだと。へん、笑わせやがらア」

「あたし、やっぱり、絵をやるわ」

「馬鹿め! 女が絵なんか描いてどうする。さっさと嫁に行け」

「あたし、絵師になるの」

「女なんかに絵が描けるわけねえ」

「あら」と久美子。「女だって絵ぐらい描けるわよ」

「描けねえ」

「描ける」

「そうよ、描けるのよ」とお辰。

「ふん、勝手にしろ!」



 夜、行燈の光の中で、久美子を描いている鉄蔵。

 久美子はあくびをしながら眠いのを我慢している。

 眠っている久美子。

 かたわらで絵を描いている鉄蔵。丁寧に色を塗っている。

 筆を置いて、絵を眺める鉄蔵。

「できた‥‥‥」

 筆を取り、左下に北斎宗理とサインをする。



 窓から朝日が差し込んでいる。

 鉄蔵の絵を挟んで寝ている久美子と鉄蔵。

 久美子、目を覚ます。

 目の前の完成した絵を見つめる。

 絵を手に取って眺める。

「ほくさいしゅうり‥‥‥ほくさいしゅうり‥‥‥かつしかほくさい‥‥‥北斎だ。北斎だわ!」

 絵と鉄蔵を見比べる久美子。そして、回りに貼り付けてある絵も見る。

「間違いない。北斎だ。彼は北斎なんだ」

 久美子、鉄蔵を揺り起こす。

 目を開ける鉄蔵。

「何だ、どうした?」

「あなた、北斎なの?」

「ん?」

「ね、北斎なのね?」

「ああ、今日から北斎だ。俵屋はもうやめた」

 久美子、鉄蔵に抱き着く。

「どうしたんだ?」

「嬉しいの」

「そうか、そうか‥‥‥」

 鉄蔵も久美子を抱き締める。

 障子が開いて、隣の部屋からお辰が眠そうな顔を出す。

「うるさいな。どうしたのよ、朝っぱらから」

「お辰、絵ができたぞ! 俺は今日から北斎だ」

「二人で楽しむのはいいけど、静かにやってよ」とお辰は障子をピシッと閉める。

 まだ抱き合ったままの久美子と鉄蔵。

「お前の名前、聞いてなかったな」

「久美子よ」

「お久美か‥‥‥いい名だ‥‥‥」




北斎




12




 久美子とお辰が台所で食事の支度をしている。

「お姉さん、父ちゃん、気に入った?」

「ええ」

「そう、それじゃア、ずっと、うちにいてね」

「えっ?」

「ちょっと気難しい所もあるけど、いい人だからさ。お姉さんとなら、きっと、うまく行くと思うわ」

「でも‥‥‥」

「あたし、父ちゃんを一人残して出て行くの心配だったの。でも、これで安心だわ」

「えっ、出て行くって?」

「今すぐじゃないのよ。あと一年くらいしたらかな」

「どこ行くの?」

「あたし、好きな人がいるの」

「でも、昨日はお嫁になんか行かないって言ってたじゃない」

「昨日はそう言ったけどね。でも、やっぱり、あたし、お嫁に行くわ」

「そう。相手はどんな人?」

「大工さんなの。まだ半人前なんだけどね。あの人が言うには一人前になるまで待ってくれって‥‥‥でも、腕は確かなの。だから、あと一年くらいしたら一人前になれるわ」

「そう‥‥‥」

「父ちゃんには内緒よ。お嫁に行け行けってうるさいけど、そんな事を言ったら怒るに決まってるもん」

「わかったわ」

「おはようございます」と鉄蔵の弟子、初五郎が入って来た。

「あら、初つぁん、どうしたの? こんな早くから」

「先生は?」

「まだ、寝てるわ。夕べ、徹夜だったから、昼まで起きないんじゃない。一体、どうしたの?」

「いえね。昨日、一枚、絵を買ったんですよ。その絵がね、ちょっと変わってるんでね、昨日一晩中、眺めてたんだけど、俺にはどうもよくわかんねえ。それで先生に見てもらおうと思ってね」

「ねえ、どんな絵、見せて」

 初五郎は手に丸めて持って来た錦絵を広げて見せた。

 その絵を覗き込むお辰と久美子。

「役者絵ね。面白い」とお辰は言った。「でも、音羽屋って、こんな変な顔してた?」

「そうなんだよ。面白えから俺も一枚買ってみたんだ。音羽屋に全然、似てやしねえ。へたくそめ、みんなに見せて笑ってやろうと思ったんだ。ところが、うちに帰って、じっくり眺めてると、やっぱり、これは音羽屋なんだよ。よくわからねえけど、そっくりなんだ。何て言ったらいいかなあ、俺にはわからねえんだけど、やっぱり、これは音羽屋なんだよ」

「そうね、似てないっていえば似てないけど、似てるっていえば似てるわ‥‥‥一体、誰が描いたの?」

「東洲斎写楽って書いてあるだろう」

「聞いた事ないわ」

「うん‥‥‥」

 久美子はじっと写楽の絵を見ている。

「お姉さん、どうしたの?」

「凄いわ‥‥‥」

「そう、凄いんだよ‥‥‥」

 三人、写楽の絵を見つめている。




東洲斎写楽



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