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散らかっている部屋の中で、久美子にポーズを取らせて、絵に熱中している鉄蔵。 台所では鉄蔵の娘、お辰が夕食の支度をしている。 久美子はポーズを取りながら、乱雑に壁に貼り付けてある何枚かの絵を見ている。 「ねえ」と久美子は鉄蔵に聞いた。「あなた、有名な絵画きなの?」 鉄蔵は熱心に筆を運んでいる。かたわらには失敗したらしい久美子を描いた絵が散らかっている。 「俵屋宗理なんて聞いた事もないわ。でも、凄い絵を描くのね」 「駄目だ!」鉄蔵は描いていた絵を横に捨てる。 「どうして、駄目なの? よく描けてるじゃない」 鉄蔵、新しい紙にまた描き始める。 「父ちゃん、ご飯」とお辰が台所から叫んだ。 鉄蔵、返事もしないで絵を描いている。 「ご飯だってば!」とお辰は部屋に入って来る。 「うるせえ、後だ!」 「ダメ! 今」 「うるせえ!」 「ご飯!」 「もう少しよ。後にしましょう」と久美子が口を出す。 「駄目よ。そんな事言ったら、夜が明けちゃうわ」とお辰は鉄蔵から筆を取り上げる。 「こら!」 鉄蔵はお辰から筆を取り返そうとするが、お辰はうまく逃げる。 鉄蔵、描きかけの絵を丸めて、お辰にぶつける。
三人はお膳を囲んで夕食を食べている。 「今日ねえ」とお辰が言った。「次郎吉に口説かれちゃった。あたしと一緒になりたいんだってさ」 「ふん。うるせえから、さっさと嫁に行け」 「父ちゃん、一人にして行けるわけないじゃない」 「馬鹿め、俺がおめえなんか小娘の世話になんかなるか」 「だけどね、あたし、あんな女々しい男なんか大嫌いなのよ」 「その次郎吉ってえな、どこのどいつだ?」 「呉服屋の若旦那じゃない」 「あのふやけた野郎か、あれがおめえと一緒になりてえだと。へん、笑わせやがらア」 「あたし、やっぱり、絵をやるわ」 「馬鹿め! 女が絵なんか描いてどうする。さっさと嫁に行け」 「あたし、絵師になるの」 「女なんかに絵が描けるわけねえ」 「あら」と久美子。「女だって絵ぐらい描けるわよ」 「描けねえ」 「描ける」 「そうよ、描けるのよ」とお辰。 「ふん、勝手にしろ!」
夜、行燈の光の中で、久美子を描いている鉄蔵。 久美子はあくびをしながら眠いのを我慢している。 眠っている久美子。 かたわらで絵を描いている鉄蔵。丁寧に色を塗っている。 筆を置いて、絵を眺める鉄蔵。 「できた‥‥‥」 筆を取り、左下に北斎宗理とサインをする。
窓から朝日が差し込んでいる。 鉄蔵の絵を挟んで寝ている久美子と鉄蔵。 久美子、目を覚ます。 目の前の完成した絵を見つめる。 絵を手に取って眺める。 「ほくさいしゅうり‥‥‥ほくさいしゅうり‥‥‥かつしかほくさい‥‥‥北斎だ。北斎だわ!」 絵と鉄蔵を見比べる久美子。そして、回りに貼り付けてある絵も見る。 「間違いない。北斎だ。彼は北斎なんだ」 久美子、鉄蔵を揺り起こす。 目を開ける鉄蔵。 「何だ、どうした?」 「あなた、北斎なの?」 「ん?」 「ね、北斎なのね?」 「ああ、今日から北斎だ。俵屋はもうやめた」 久美子、鉄蔵に抱き着く。 「どうしたんだ?」 「嬉しいの」 「そうか、そうか‥‥‥」 鉄蔵も久美子を抱き締める。 障子が開いて、隣の部屋からお辰が眠そうな顔を出す。 「うるさいな。どうしたのよ、朝っぱらから」 「お辰、絵ができたぞ! 俺は今日から北斎だ」 「二人で楽しむのはいいけど、静かにやってよ」とお辰は障子をピシッと閉める。 まだ抱き合ったままの久美子と鉄蔵。 「お前の名前、聞いてなかったな」 「久美子よ」 「お久美か‥‥‥いい名だ‥‥‥」
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久美子とお辰が台所で食事の支度をしている。 「お姉さん、父ちゃん、気に入った?」 「ええ」 「そう、それじゃア、ずっと、うちにいてね」 「えっ?」 「ちょっと気難しい所もあるけど、いい人だからさ。お姉さんとなら、きっと、うまく行くと思うわ」 「でも‥‥‥」 「あたし、父ちゃんを一人残して出て行くの心配だったの。でも、これで安心だわ」 「えっ、出て行くって?」 「今すぐじゃないのよ。あと一年くらいしたらかな」 「どこ行くの?」 「あたし、好きな人がいるの」 「でも、昨日はお嫁になんか行かないって言ってたじゃない」 「昨日はそう言ったけどね。でも、やっぱり、あたし、お嫁に行くわ」 「そう。相手はどんな人?」 「大工さんなの。まだ半人前なんだけどね。あの人が言うには一人前になるまで待ってくれって‥‥‥でも、腕は確かなの。だから、あと一年くらいしたら一人前になれるわ」 「そう‥‥‥」 「父ちゃんには内緒よ。お嫁に行け行けってうるさいけど、そんな事を言ったら怒るに決まってるもん」 「わかったわ」 「おはようございます」と鉄蔵の弟子、初五郎が入って来た。 「あら、初つぁん、どうしたの? こんな早くから」 「先生は?」 「まだ、寝てるわ。夕べ、徹夜だったから、昼まで起きないんじゃない。一体、どうしたの?」 「いえね。昨日、一枚、絵を買ったんですよ。その絵がね、ちょっと変わってるんでね、昨日一晩中、眺めてたんだけど、俺にはどうもよくわかんねえ。それで先生に見てもらおうと思ってね」 「ねえ、どんな絵、見せて」 初五郎は手に丸めて持って来た錦絵を広げて見せた。 その絵を覗き込むお辰と久美子。 「役者絵ね。面白い」とお辰は言った。「でも、音羽屋って、こんな変な顔してた?」 「そうなんだよ。面白えから俺も一枚買ってみたんだ。音羽屋に全然、似てやしねえ。へたくそめ、みんなに見せて笑ってやろうと思ったんだ。ところが、うちに帰って、じっくり眺めてると、やっぱり、これは音羽屋なんだよ。よくわからねえけど、そっくりなんだ。何て言ったらいいかなあ、俺にはわからねえんだけど、やっぱり、これは音羽屋なんだよ」 「そうね、似てないっていえば似てないけど、似てるっていえば似てるわ‥‥‥一体、誰が描いたの?」 「東洲斎写楽って書いてあるだろう」 「聞いた事ないわ」 「うん‥‥‥」 久美子はじっと写楽の絵を見ている。 「お姉さん、どうしたの?」 「凄いわ‥‥‥」 「そう、凄いんだよ‥‥‥」 三人、写楽の絵を見つめている。
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