酔雲庵


酔中花

井野酔雲





43




 春が来た。

 どこに来た?

 この山にも来た。新緑の山々が喜んでいる。

 スケッチブックを持って、久美子が鼻歌を歌いながら歩いて行く。

 壊れかけた山寺の前。

「仙人さん、いる?」と声をかけ、久美子は中を覗いた。

 返事はない。

 一升どっくりが床に転がっているだけである。

 久美子は中に入って、とっくりを立てた。



 山の頂上。

 久美子は村を見下ろしている。

 桜が咲き始めている。

 子供たちが元気に遊んでいる。

 村人たちは田畑で働いている。

 後ろに人の気配を感じて、久美子は振り返った。

 仙人がとっくりを下げて、ニコニコしながら立っていた。

「そろそろ、帰るか?」と仙人は言った。

 久美子はうなづいた。

 仙人もうなづいた。

 二人は村を見下ろしている。



 山の中の沼。

 久美子は新緑に囲まれた静かに澄んだ沼を見つめている。

「さよなら」と小さく呟いた。




SAKURA STAMP 矢野沙織




44




 夕方、久美子が帰って来る。山小屋に入ろうとして中を見ると、ラーラがコタツに入って待っていた。

「あんた‥‥‥」と久美子はラーラを見つめた。

「とうとう、逃げて来ちゃった」とラーラは笑った。

「本当に人間になるつもり?」

 ラーラはうなづいた。

「子供の事は大丈夫なの?」

「気になるけどしょうがないわ。ちゃんと子供には話して来たわ」

「そう‥‥‥」

「あの子もわかってくれたみたい。あたしの話を聞きながら、目に涙を溜めて、じっと、あたしの顔を見てたわ‥‥‥あたし‥‥‥大丈夫よ‥‥‥あの子‥‥‥」

「そう‥‥‥」

 久美子はコタツに入った。

「まだ、寒いわね」

 ラーラは涙をふいて、久美子に笑いかけた。

「それで、これからどうするの?」

「とりあえず、お姉さんについて行く。だって、人間の習慣とか、あたし、何も知らないでしょ。色々と教わらなくちゃ」

「あたしなんか、何も教えられないわよ」

「いいのよ、あたし、お姉さん、好きだもん」

「しょうがないなあ」

「いいでしょ、ね、あたし、お姉さんの妹よ。ね、いいでしょ」

「ええ‥‥‥いいわ」

「よかった」

 喜ぶラーラ。

 無邪気なラーラを見ている久美子。自然と笑ってしまう。




ラベック姉妹/ラグタイム・ミュージック集




45




 電車を待っている久美子とラーラ。

 見送りに来た寅吉爺さん、加代、春子、幸子、次郎、博。そして、村の人たちも何人か来ている。

「残念じゃな」と寅吉爺さんは言った。「もう少し待てば、先生も帰って来るのにな」

「先生もよろしくお伝え下さい」

「ああ」

「元気でね、先生」と加代が言った。

 うなづく久美子。「皆さん、色々とありがとうございました」

「それはこっちが言う事よ」と春子は言った。「先生、あたしたちの事、忘れないでね」

「忘れないわ、一生。この村の事、そして、みんなの事、絶対、忘れないわ‥‥‥」

「また、いつか来てね」と幸子が言った。

 うなづく久美子。

「元気でな、先生」と次郎は言った。

 うなづく久美子。

「みんなも仲良くね」

「来たぞ」と博。

 電車がホームに入って来た。

 久美子とラーラは電車に乗る。

「‥‥‥」と寅吉爺さんは久美子の顔を見つめた。

 久美子はうなづいた。

 みんなも何も言わず、久美子を見ている。

 久美子も何も言わず、みんなを見ている。

 ベルが鳴り、ドアが閉まり、電車がゆっくりと走り出した。

 手を振る久美子。

 手を振るみんな。

 電車と共に駆け出す三人娘と次郎と博。

 ホームの端まで来て手を振る五人。

「せんせえ〜」

 電車は新緑の中を、光の中を走り去って行った。





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