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春が来た。 どこに来た? この山にも来た。新緑の山々が喜んでいる。 スケッチブックを持って、久美子が鼻歌を歌いながら歩いて行く。 壊れかけた山寺の前。 「仙人さん、いる?」と声をかけ、久美子は中を覗いた。 返事はない。 一升どっくりが床に転がっているだけである。 久美子は中に入って、とっくりを立てた。
山の頂上。 久美子は村を見下ろしている。 桜が咲き始めている。 子供たちが元気に遊んでいる。 村人たちは田畑で働いている。 後ろに人の気配を感じて、久美子は振り返った。 仙人がとっくりを下げて、ニコニコしながら立っていた。 「そろそろ、帰るか?」と仙人は言った。 久美子はうなづいた。 仙人もうなづいた。 二人は村を見下ろしている。
山の中の沼。 久美子は新緑に囲まれた静かに澄んだ沼を見つめている。 「さよなら」と小さく呟いた。
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夕方、久美子が帰って来る。山小屋に入ろうとして中を見ると、ラーラがコタツに入って待っていた。 「あんた‥‥‥」と久美子はラーラを見つめた。 「とうとう、逃げて来ちゃった」とラーラは笑った。 「本当に人間になるつもり?」 ラーラはうなづいた。 「子供の事は大丈夫なの?」 「気になるけどしょうがないわ。ちゃんと子供には話して来たわ」 「そう‥‥‥」 「あの子もわかってくれたみたい。あたしの話を聞きながら、目に涙を溜めて、じっと、あたしの顔を見てたわ‥‥‥あたし‥‥‥大丈夫よ‥‥‥あの子‥‥‥」 「そう‥‥‥」 久美子はコタツに入った。 「まだ、寒いわね」 ラーラは涙をふいて、久美子に笑いかけた。 「それで、これからどうするの?」 「とりあえず、お姉さんについて行く。だって、人間の習慣とか、あたし、何も知らないでしょ。色々と教わらなくちゃ」 「あたしなんか、何も教えられないわよ」 「いいのよ、あたし、お姉さん、好きだもん」 「しょうがないなあ」 「いいでしょ、ね、あたし、お姉さんの妹よ。ね、いいでしょ」 「ええ‥‥‥いいわ」 「よかった」 喜ぶラーラ。 無邪気なラーラを見ている久美子。自然と笑ってしまう。
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電車を待っている久美子とラーラ。 見送りに来た寅吉爺さん、加代、春子、幸子、次郎、博。そして、村の人たちも何人か来ている。 「残念じゃな」と寅吉爺さんは言った。「もう少し待てば、先生も帰って来るのにな」 「先生もよろしくお伝え下さい」 「ああ」 「元気でね、先生」と加代が言った。 うなづく久美子。「皆さん、色々とありがとうございました」 「それはこっちが言う事よ」と春子は言った。「先生、あたしたちの事、忘れないでね」 「忘れないわ、一生。この村の事、そして、みんなの事、絶対、忘れないわ‥‥‥」 「また、いつか来てね」と幸子が言った。 うなづく久美子。 「元気でな、先生」と次郎は言った。 うなづく久美子。 「みんなも仲良くね」 「来たぞ」と博。 電車がホームに入って来た。 久美子とラーラは電車に乗る。 「‥‥‥」と寅吉爺さんは久美子の顔を見つめた。 久美子はうなづいた。 みんなも何も言わず、久美子を見ている。 久美子も何も言わず、みんなを見ている。 ベルが鳴り、ドアが閉まり、電車がゆっくりと走り出した。 手を振る久美子。 手を振るみんな。 電車と共に駆け出す三人娘と次郎と博。 ホームの端まで来て手を振る五人。 「せんせえ〜」 電車は新緑の中を、光の中を走り去って行った。
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