酔雲庵


酔中花

井野酔雲






間章 子守唄




 派手な古傷を顔に持った男は目を開けた。

 そこは薄暗く広い部屋で、部屋を世間から隔離している壁がどこにあるのかわからないほど広い部屋だった。

 男は誰にともなく質問した。

「おい、今、何時だ?」

「十二分よ。二時十二分」と女の声が答えた。その女はシーツを頭からかぶり、座禅を組んで時計に合わせて呼吸をしていた。

「嘘つくな。まだ、一時三十三分だぜ」金色に輝く懐中時計を手に持った男が言った。「この時計はな、まだ一度も狂った事がないんだぜ。たとえ、一秒だってな」と洒落た服に身を固めた伊達男は自慢気に金時計を見せびらかした。

「今は二時十三分よ」と負けずにシーツの女は言った。

「お前のは狂ってるんだよ。今は一時四十一分だ。俺のに会わせな」と伊達男は我を通した。

「俺の腹時計によると今、丁度、お昼だぜ。なんか、食う物ねえのかよ」とボロ服を見事に着こなしている浮浪者が肩をボリボリかきながら言った。

「おめえの時計は、いつからお昼のままなんだい?」と浮浪者の隣で寝そべっているダブダブの制服を着た警官が笑った。

「もう三日よ。ゼンマイが切れちまって、ちっとも動かねえよ」浮浪者は腹の虫の混声合唱を聞かせた。

「鉛玉でも食ってみるか。びっくりしてゼンマイが動き出すぜ」と警官はかじっていたマッチ棒を飛ばした。

「ねえ、その鉛玉、あたしにくれない? あたし、さっぱりしたいのよ」と赤毛の姉さんが横から口を出した。

 警官はニヤニヤしながら姉さんに近づいて行く。「姉ちゃん、どこをさっぱりさせたいんだ?」

「ここに決まってるじゃない。ねえ、あんたの鉄砲、ここに突っ込んで一発ぶっぱなしてよ」姉さんは長いスカートをまくり上げた。御丁寧にも、そこの毛まで赤く染めている。

 警官は腰の拳銃を素早く抜いて、早撃ちガンマンのポーズを取った。

「なにカッコつけてんのよ。あたしの大事な所がくしゃみするじゃない」

 警官はわかったと敬礼して、姉さんの大事な所を拳銃で撫で始めた。

「ヒヤリとして、いい気持ち。ゾクゾクするわ。ねえ、早く入れて」と姉さんは両足を上げて腰を突き出した。

 いつの間にか、浮浪者は姉さんのうまそうなおっぱいをヨダレを垂らしながら、むさぼり食っていた。

 姉さんは腰を使い始め、「いいわ、いいわ、早くぶっぱなして、最高よ」とうめいた。

 警官は撃鉄を起こし、カッコつけて片手で構える。「いいか、いくぞ!」

「いいわ、早く、早く」と姉さんは息も荒くせきたてた。

 警官は引き金を引く。

 カチッとさえない音がして不発。

「おい、火薬がしけちまったよ」

「しらけさせないでよ。あんたの水鉄砲を使ってよ」と姉さんは小さな事に気をかけない。

「そうか、よし」と警官はズボンの中から張り切った小さな水鉄砲を出した。

 浮浪者はおっぱいを貰ったお返しに、姉さんにキャンディをしゃぶらせていた。姉さんは調味料のたっぷりきいたキャンディをうまそうになめている。

 警官の水鉄砲は的を狙う前に暴発してしまった。仕方なく、腰にぶら下げていた棍棒を身代わりに差し込んだまま、お上からの大事な預かり物の拳銃の分解掃除を始めた。

 やっと、目の慣れてきた顔に傷のある男は、そばで編み物をしている娘に声をかけた。「お嬢さん、今、昼なのかい、夜なのかい?」

「夜でしょ、暗いから」と娘は答えた。

「そうだな、暗いから夜だな」と男は納得する。「しかし、あの重そうなカーテンの外は昼なんじゃないかな」と疑問が生じた。

「でも、ここは今、夜なのよ。たとえ、ニューヨークが昼でも、パリが朝でも、ここは夜なの」娘は正しい答えを出した。

 男は頭のいい娘だなと感心した。

 娘は男の存在など全然、気にかけてなく編み物に熱中している。

「何を編んでるんだい?」と男は訊いてみた。

 娘はよく訊いてくれたというように男の方を見てニコリとした。

「あたしの赤ん坊の服よ。もうすぐ生まれるのよ。可愛いあたしの赤ちゃんよ。きっと、素敵な赤ちゃんが生まれるわ。だって、あたし、処女なんですもの」と娘は無邪気に言った。

 男はまた新しい疑問にぶつかった。「失礼ですけど、赤ん坊の父親はどなたなんですか?」

 娘の顔が夢見るようになって、「神よ、神様です」と言った。

 男は、「神様ですか」とまた感心した。「俺は今まで神様なんて見た事もないけど、やっぱり、あれですか、神様もやっぱり、あなたの上に乗っかって、やっぱり足を開いて、その、アレをするんですか?」と恐る恐る訊いてみる。

 娘は恥ずかしそうに顔を赤くした。「やだ、そんな、神様だって、ちゃんと、アレします。だから、あたしのおなかの中に赤ちゃんができたんじゃない」娘は優しくおなかを撫でた。

「それで、神様っていうのは、どんな顔してるんです?」と男は今まで一度も信じた事のない神様に興味を持って、娘に尋ねた。

「それがよくわからなかったの。人間に顔を見せるわけにはいかないって言ってたわ。ストッキングをかぶってたみたい」娘はあの夢のような一夜を想い出して言った。

「へえ、ストッキングをね。ストッキングをかぶった神様が夜、あんたの所に忍び込んで来たわけ?」男は娘の言う神様に半分、疑いを持ってくる。

「そうよ。神様は窓から入っていらしたわ。『わたしは天から来ました。あなたは選ばれたのです。あなたは神の子を宿るのです』って神様はおっしゃったわ。そして、あたしのベッドの中に‥‥‥神様はとても優しかったわ。そして、とても、おなかをすかしているようだったの。あたし、サンドイッチを作ってあげたわ。神様は泣いて喜んでくださったわ」娘は神様を信じきっていた。

「成程ね」と男は娘を羨ましそうに見つめた。そして、娘の言う神様を信じようと思った。「素晴しい子供が生まれるだろうね」と男は心から優しく言った。

 娘は嬉しそうに頷いた。

 男は編み物をしている娘から、上半身は暖かそうな毛皮にくるんでいるが、下半身は丸出しの娘に目を移した。その娘は真剣な顔をして鏡を睨みながら、下のヘアーを芸術的にカットしていた。背中を丸めてハサミを動かしている姿はサルがノミを取っているように見える。

 男は思わず笑ってしまい、顔をしかめた。

 その隣では今にも死にそうな痩せ細ったしわくちゃ婆さんが小銭を丁寧に数えては金庫の中にしまっていた。

 この部屋には色々な奴らがいた。それぞれ、色々な奴らが好き勝手な事をしている。しかし、どいつもこいつも何かを待っていた。何だかわからないが、来たるべき物を待っていた。

 男はこの部屋にいる一人一人を無表情で眺め、最後に編み物をしている娘に目を戻すと安心したように目を閉じた。

 金時計を持った洒落た男はしきりに尼さんを口説いていた。尼さんはひざまづき、目の前を見上げながら胸に十字を切っている。目の前に磔のキリストが笑っているかのように虚ろな目を空中に向けていた。洒落男は尼さんの隣にひざまづき、左手で尼さんのお尻を優しく撫でながら、右手で十字を切っている。

「ねえ」と洒落男は言った。「この帽子の下は本当に坊主頭なの?」隠されている物を見てやろうという好奇心が洒落男の目にあふれている。

「失礼な事を言わないで下さい」と尼さんは洒落男を睨んだ。「私は神に仕える身です。毛などという不浄な物は持っていません」

 洒落男は考える。毛という物はそんなに汚ならしい物なのか? この際、そういう事にしておこう。

 尼さんは帽子を脱いで、ツルツル頭を自慢げに男に見せた。男は何か高貴な物を見せてもらったかのように、光り輝く頭を見つめ、うやうやしく、その頭にキスをした。

「素晴しい。とても綺麗だ」と男は感嘆した。

 尼さんはまた十字を切った。「私は神に仕える身です。常に綺麗でなければならないのです」

「うん。あなたはとても綺麗だ。でも、なぜ、あなたみたいな綺麗な人が尼さんになったのです?」と洒落男は全世界の男共を代表して質問した。

「それは愛です」と尼さんは誇らしげに言った。「愛はすべての者を救います」尼さんは両手を広げて、愛を表現した。

「でも、勿体ないなあ」と洒落男は愚痴をこぼす。「あなたみたいな人が一生、神に仕えて、その綺麗な肌を誰にも触れさせないなんて‥‥‥」洒落男の好奇心は尼さんの服の下に隠された柔肌をなめまわす。

「あなたは何という事を言うのです」尼さんは男をキッと睨んでから、「この哀れな子羊をお許し下さい」と胸に十字を切った。

「だって、あんただって女だろ。男に抱かれたいと思う事だってあるはずだ」と洒落男の好奇心は力づくでも尼さんを手に入れようとする。

「お黙りなさい」と尼さんは厳しく命令した。「神を冒涜してはいけません。神の声をお聞きなさい。私は神に身を捧げた者です。神は言っておられます。隣人を愛しなさい。右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい。あなたの持っている物を誰かが欲しいと言ったら分け与えなさいと。私は愛に身を捧げた者です。決して、私は自分から求めたり欲したりはしません。私は愛を捧げる身なのです。わかりましたか? 神の声が聞こえましたか?」尼さんは愛に満ちた優しい目で洒落男を見守った。

 洒落男はかしこまって、「はい」と答えた。「聞こえました。神はわたしにもあなたの愛を分け与えるとおっしゃいました」と洒落男は胸に十字を切った。

「そうです」と尼さんは優しく言った。「神様はそうおっしゃいました。私の愛をあなたに捧げます」

 洒落男は興奮して鼻息荒く、尼さんに飛びついた。尼さんはさらりと身をかわして立ち上がった。

 尼さんはするりと黒い服を脱ぎ捨てた。生まれたままのヴィーナスのような汚れない体をした尼さんは男を見下ろして言った。「よく御覧なさい。これが神が創り出した愛の姿です」

 男の興奮は治まり、美に圧倒されて萎縮してしまう。尼さんの優しい眼差しの後ろには後光が差している。

 男は惨めな気持ちになって、目の前の不毛の割れ目を見つめていた。すると、男の心の中に何とも言えない、言葉ではとても現せない感動がこみ上げて来た。洒落男は両手を合わせ、尼さんを見上げて熱心に拝んだ。

 ハーモニカでブルースを吹いていた男は顔を上げて言った。「おい、そろそろ臭って来たんじゃねえのか?」

 ハンカチを鼻に当てて泣いていた女は鼻をクンクンさせて言った。「まだ大丈夫よ」

 猫をつかまえてヒゲを抜いている男が言った。「でもよ、もう三日位たってるんじゃねえのか。そろそろ、やばいぜ」

「でも、彼、どうすんのよ。ああやって、体中、キスしてるじゃない。とても、離れそうもないわよ」と自慢の長い髪を丁寧に櫛でとかしている女が言った。

「でもよ」と猫を抱いた男は言った。「腐っちまったら、どうするんだい。蛆でもわいて来てみろよ。あいつだって可哀想だぜ。綺麗なうちに弔ってやろうぜ」

 猫が主人の意見に同意して、「ニャオ」と鳴いた。

 ハーモニカの男は、「そうだな」と言って立ち上がった。

 年代物のテーブルの上には、うら若き女の死体が横たわっている。彼女の恋人だった男は涙に濡れながら、愛しき魂の抜け殻を抱きしめている。

 ハーモニカの男は恋人の肩をそっと叩き、「もう気が済んだろ。いつまで泣いてたって、こいつは戻ってきやしねえよ」と優しい言葉をかけた。

「わかってるよ」と死体の恋人は言った。しかし、まだ、彼女に未練があって離れがたい。

「悲しいのはわかるさ」とハーモニカは同情する。「でも、こいつはみんなの心の中で、ずっと生き続けて行くんだよ。なあ、元気だせよ」

「そうよ。元気出しなさいよ」と長い髪の女も励ました。

「大丈夫さ」と恋人は表面だけの強がりを見せた。

 仲間が死体の回りに集まって来た。

 ハンカチ女がまた泣き出した。

「やめろよ」と猫を抱いた男が肘で突っついた。

 ハーモニカが死んだ彼女の好きだった陽気な歌を流した。みんな、ハーモニカに合わせて陽気に歌を歌うが、涙で顔は歪み、声はかすれてしまう。

 いつの間にか、部屋にいる連中全員が歌い出して大合唱になった。陽気で悲しい歌が部屋中に満ち、死体の恋人は泣きながら笑い、やすらかな微笑を浮かべた恋人の顔を見つめている。

 大合唱はいつまでも続いた。あらゆる言葉で、あらゆる種類の人間たちによって、それは世界が一つになったように感じられた。そして、その合唱は誰が合図するでもなく一斉に静まり、もとのバラバラな個人世界に戻って行った。

「よし」とハーモニカの男は言った。「コックを呼んで来い」

「はい」と薄汚れたフットボールを大事そうに抱いている少年は返事をすると走って行った。

「頭は俺にくれよ」と死体の恋人は言った。

「どうするんだ?」

「頭蓋骨に漆を塗って飾って置くんだ」恋人は死体の髪を優しく撫でていた。

「わかった」とハーモニカの男は死体と恋人を見比べた。

 少年がコックを連れて来た。

 コックは包丁を研ぎながら事務的に問う。「死因は?」

「クスリです。クスリの飲み過ぎです」

 コックは何もかもわかったというように頷いて、助手たちに合図をした。

 助手たちは感情など全然ない機械のように、彼女を大根のように扱い、担架に乗せて運び去った。

 ハーモニカの男はついて行こうとする恋人を引き止め、「やめた方がいい」と首を振った。そして、コックの後を追った。

 恋人は気の抜けたように立ち尽くしていた。

 痩せて目のくぼんだ青白い顔をした男が、猫を抱いている男の横に来て質問した。「いってえ、あの娘さんは、何で死んじまったんで?」

「やり過ぎさ」と男は猫の喉をゴロゴロさせながら、そっけなく言った。

「やり過ぎって言うと、やっぱり、アレですかい?」と興味深そうに目を光らせて青白い男は訊いた。

「ああ、アレだよ」

「そうか、やり過ぎると、やっぱり死んじまうんだな」と青白い男は一人で納得する。「しかし、死ぬほど、やってたのに綺麗な体をしてたな」と死体の体を思い浮かべてヨダレを流した。

「あんた、あの腕、見たかい? 右も左も注射の痕だらけだぜ」と猫のヒゲを一本抜き取った。

 猫は悲鳴を上げてもがき、男の手をひっかくが、男はそんな事、まったく気にもかけない。

「注射?」と青白い男はちょっと考えてから、成程、そういうわけかと理解して話し出した。「やっぱり、やり過ぎたんで、腰の病気になっちゃって、注射で治したんですかい。でも、治らなかった。可哀想な事ですな」青白男は、この世は儚いという顔付きになった。

「あんた、なに考えてんだい。ところで、あんた、何者?」と猫愛好家は隣の目の落ちくぼんだ男の正体を見きわめようと観察する。

「勘弁して下さいよ。あっしの仕事は人様に好かれるようなもんじゃねえんだ。まったく、最低な仕事よ。だがよ、その仕事は俺しかできねえんだ」と萎びてしまった、わずかばかりの誇りをちらつかせた。

「あんた、死神じゃねえのか」と猫愛好家は感想をもらした。

 青白い男はドキッとした。「あんた、もしかしたら占い師かい。てえしたもんだ。実はあっしは死神なんで、正確に言うと死刑執行人て奴でして、あそこを御覧なさい。あの立派なイスに座っている奴ですよ。あっしはあいつを殺さなけりゃならねえんで」と慈悲深い目をイスの方に向けた。

 猫愛好家は細い目を見開いて、立派なイスにしょんぼりと座っている年寄りを見つめた。

「あれが噂の電気イスかい?」なかなか座り心地が良さそうじゃないかと猫愛好家は思った。

「そうよ、このボタンを押すだけで自動的に仏様が一人出来上がるのよ」青白い男は手の中のスイッチを弄んだ。

「あんた、それで何人の仏様を作ったんだ?」と小さなスイッチと電気イスの中の萎びた爺さんを見比べて、いやな顔をした。

「もう忘れちまった。百人はいるだろう」と死刑執行人はつまらなそうに言った。

「おめえは百人も人間を殺したのか」猫愛好家は大嫌いなミミズでも見るような顔をして青白い男を見た。

「殺さなけりゃ、俺が殺されるからよ」と悲しい顔を上げた。

「そうか、おめえも昔は死刑囚だったんだな」と同情の目に変わる。

「馬鹿言うな」と青白い男は本気で怒った。「これでも俺は一流大学を出て、国家試験を受けて検事にまでなったんだ。俺は自分の仕事に燃えていた。法律を破って、平気な面をしている極悪人どもはどんどん死刑にしてやった。しかしよ、死刑が宣告されたって、本当に死刑になんかなりゃしねえ。死刑を執行する奴が誰もいねえんだよ。それで、俺がその役を買って出た。最初のうちは、さすが検事の鑑だなどとおだてやがって、そのうちに死刑囚じゃねえ奴まで俺に殺させやがる。くそったれめ!」死刑執行人は舌打ちした。

「何だと、そりゃ、どういう意味だい?」と猫の尻尾を引っ張りながら詰め寄った。

「邪魔者は消せってわけさ」と青白い男は吐き捨てるように言う。「お偉いさんたちの命令よ。てめえの都合の悪い目障りな奴は、くだらねえ、ちょっとした事で逮捕して、裁判もしねえで、あの世行きよ。俺が殺した半分以上は、そういう可哀想な奴らさ。俺は知り過ぎちまったんだよ。そういう政治のカラクリって奴をな。今の俺はただ、てめえの命が惜しいから、このボタンを押してる情けねえ男よ」もと正義に燃えた検事だった男は顔を歪めて、小さなボタンを見つめた。

「あの男は一体、何をしたんだ?」猫愛好家はイスの中で震えている哀れな爺さんを見て訊いた。

「あんな爺さんが何かするわけねえだろう。あの爺さんはある弁護士の親父さ。お偉いさんのやる事に反対している馬鹿な弁護士のな」まだ、かすかに残っている正義の血が青白い男の中で腹を立てていた。

「その弁護士は自分の親父の事を知ってるのか?」と意気込んで訊く。

「知ってるさ」

「知ってて見殺しにするのか?」そんな奴、人間じゃねえと猫愛好家は青白い男に殴りかかろうとする。

「しょうがねえんだよ」と青白い男は猫愛好家を落ち着かせる。「その弁護士だってな、ただのロボットにすぎねえんだ。言う事、聞かなけりゃ、今度は自分が生きていけなくなるんだよ。どいつもこいつも出世したくて、権力のケツにくっつきたがる。そして、バックを笠に着て、でけえ面をする。いい気になってるのは初めだけさ。いつの間にか、使い捨てのロボットになっている。そうなったら、もう二度と人間様には戻れねえ。わけもわからねえのにロボット同士で喧嘩して、両方とも自滅よ。頂上にいる奴らは頭がいいからな、お互い同士じゃ絶対にやり合わねえんだよ。お互い親友同士って面で握手して、ロボット同士は毎日、血を見ている」青白い男は、もう、そんな事はやめてくれとしかめた顔を振った。

「おめえさん、そいつを全部、あんたが知ってる事、全部、暴露したらどうだい」膝の上の猫も、そうだそうだとニャオと鳴いた。

「馬鹿言うな」と青白い男は、物凄い顔をして怒鳴った。「暴露するだと? 一体、どこに暴露するんだ? そんなとこ、どこにもねえじゃねえか。新聞社にそんな事、言ってみろ。次の日には、俺の可愛い娘、女房、年取ったおふくろまでが汚ねえドブん中で伸びてるよ。あんさんも俺が言った事は忘れた方がいいぜ。そんな事、誰かに言ってみろ。殺される事はねえにしても、気違え病院行きは間違えねえ。そして、死ぬまで出て来られねえよ」溜め息をついて、青白い男は立ち上がり、電気イスの中で、うなだれている爺さんのそばに行った。

 爺さんは情けない顔を上げ、しょぼくれた目で死刑執行人を見た。執行人は何か冗談を言った。爺さんは微かに笑った。それが爺さんのこの世で最期の笑いとなった。

 猫が男の膝の上で悲鳴を上げた。

 可哀想な可愛い死体が寝ていたテーブルの上に、ボロをまとって髪もヒゲも伸び放題という青年が飛び乗った。

 青年は周りの人たちを冷めた目つきで見回し、静かな落ち着いた声で、「皆さん」と言った。大声ではないのに、その声は部屋中に響き渡った。

 青年は演説を始めた。

「皆さん、信じられないかもしれませんが、この小さな地球という星には、まだ、貧困に苦しんでいる人々がいます。ある地方では、車が二百キロで突っ走り、冷蔵庫の中の食べ物は半分以上、腐らせてしまう。高級レストランでは、一口かじっただけのステーキがゴミ箱に捨てられる。しかし、ある地方では、食べる物が何もなく、子供たちは泣き叫びながら骨と皮だけになって、腹だけを膨らませて死んで行く。また、ある地方では、広い果樹園になっている実が誰にも食べられる事もなく腐って行く。しかし、ある地方では、たった一つの腐りかけている実を自分の腹に入れようと奪い合って、何人もの人間が殺し合っている。こんな事でいいのでしょうか? 皆さん、よく考えてみて下さい」

 青年は腕を組んで聴衆の反応をうかがった。

「うるせえ、ひっこめ!」と誰かがヤジった。「てめえの事が精一杯で、人の事なんか構ってられるか」と当たり前の事でも言うような調子で言った。

「そうだ、そうだ」と同調の声もちらほら。

「黙れ!」と誰かが反対意見を言った。「俺は知ってるぜ。そういう飢えた人たちをな。みんな、おめえたちと同じ人間だぜ。それなのに、どうだ、おめえみてえな考えを持ったくだらねえ人間どもは汚ねえゴミでも見るような目で奴らを見やがる。俺はちゃんと知ってるぜ。奴らは食う物もねえ。死といつも隣り合わせで、ぎりぎりに生きている。でも、奴らだって、ちゃんと夢を持ってるんだ。おめえらにはわかんねえだろうがな、俺はちゃんと知ってるんだ。よう、兄さん、続けてくれ」

「皆さん」とボロをまとった青年は言った。「信じられないかもしれませんが、この小さな地球という星の中のある地方では今、殺し合いをしています。同じ人間同士が、たまたま真ん中に川が流れている地方で、川のこちら側と向こう側の人々が川を真っ赤に染めているのです。争いの原因は子供たちの喧嘩です。子供の喧嘩に親が出て来て、村が出て来て、町が出て来て、だんだんと大きな争いになって行ったのです。すると、不景気だった、ある地方は景気回復のために武器の製造を始めます。そして、偉そうな大義名分を掲げ、川のこちら側を応援します。すると、他の地方が川のあちらを応援します。実際に戦争をしている人々はもううんざりして仲直りしたいと考えています。しかし、応援している者たちはそうはさせません。この争いが終わったら、また不景気になってしまうからです。応援している者たちはお互いに戦争を操作して、長引かせるように努力しています。川を赤く染めてくれる人は、まだまだ、たくさんいます。なぜ、川を赤くしなければならないのでしょう。赤い川では洗濯もできませんし、水も飲めません。下流に住んでいる人たちは泣いています。自分たちのために人々を犠牲にしていいのでしょうか? 皆さん、よく考えてみて下さい」

「おい、若造!」と誰かが怒鳴った。「おめえ、偉そうな事を言ってるが、戦争がどんなものか知ってるのかい。俺は知ってるぜ」とまた、物知りおじさんがしゃしゃり出た。

「毎日、へとへとになるまで歩かされるんだ、ろくな物を食べずにな。何に向かって歩いているかわかるかい、え? 殺されに行くために歩いているのよ。俺たちがこっちから歩いて行く。向こうからも、俺たちみてえのが歩いて来る。そして、真ん中にある、ちょっとした丘の取りっこよ。その丘は天国みてえな、うめえ物がどっさりあるような丘なんかじゃねえ。何にもねえ、ただの丘よ。それを取るために俺たちゃ、見も知らねえ、恨みも何にもねえ相手を殺して、その丘を手に入れるのよ。とにかくよ、その丘を手に入れりゃあ、のんびり休めて何か食えるんじゃねえかと思ってよ。ところがどうだい。その丘を手に入れてみりゃ、回り中、死体だらけよ。どの死体だって、五体満足なのはありゃしねえ。手がもげてたり、首が吹っ飛んでたり、地獄なんてもんじゃねえ。だがよ、それで終わるわけじゃねえ。丘から向こうを見りゃ、敵が黒い波のように押し寄せて来やがる。俺たちの後ろにゃ味方なんかいやしねえ。もう、俺はおしまいかと思ったぜ」

「よく、おめえ、今まで生きてられたじゃねえか」と競馬新聞を見ていた男が口を出した。

「ああ、今でも不思議だ。あの時、丘の上で息をしていた味方は二十人といなかった。みんな、死んだようにぐったりしていた。俺は何も考えずに、ただ、ボケッと大勢の敵を見ていた。もう、何かをする力なんか、これっぽっちも残っちゃいねえ。せまって来る黒い波を見ていたんだ。そしたら、不思議じゃねえか。敵はUターンして戻っちまったんだ。俺には、なぜだか全然わからなかった。今まで押し寄せていた敵が、あっという間に向こうの方に消えちまった。そこまで見てから、俺は気を失ったらしい。次に気がついたら野戦病院で寝てたよ」

「それで、あんたは戦争をどう思ってるんだい?」と競馬新聞は訊いた。

「当たりめえじゃねえか。あんな事あ、二度とやっちゃいけねえ」と物知りおじさんは力強く主張した。

「でもですよ、今、現在、どこかで戦争をやってるんですよ」と無精ヒゲをはやした学生服の男が説明した。

「わかってらあな。でもよ、俺に一体、何ができるっていうんだい? 戦争反対のプラカードでも持って歩けとでも言うのか? そんな事で戦争がなくなるんだったら、毎日やってやるよ」

「ようするにですね」と学生は言う。「世界が一つになればいいんですよ。二つに分かれるから争い事が起こるんです。一つにまとまってしまえば争いは起きません。たとえば、一人の人間の中で右手と左手が喧嘩しますか? 鼻と口が喧嘩しますか?」学生は自分の意見に得意になっていた。

「馬鹿言っちゃいけねえ」と競馬新聞が反対した。「それじゃあ、一体、誰が頭になるんだ? その頭を決めるために、この地球上の半分の人間は死ぬ事になるぜ」競馬新聞は完全に学生を見下している。学生は立場がなくなって、しぼんでしまった。

「皆さん、仕方のない事なんです」と学者風の男が、分厚い難しそうな本から目を上げて静かに言った。「この世界はすべて、あるがままにあるのです。人間から戦争をなくす事はできないのです。この自然の中の生き物たちは、うまくバランスを取って共存しているのです。それぞれの生き物には天敵という物があって、増え過ぎもせず、減り過ぎもせず、丁度いい具合に共に生きて来たのです。ところが、人間は、このバランスを常に壊してきました。昔の人間は弱い生物でした。獣たちには襲われ、病気に罹って死んで行きました。それでも、滅びる事もなくバランスを保って生きていたんです。しかし、人間は頭を使って、天敵たちと戦い、常に勝って来ました。平均寿命も毎年伸び、人口は毎年、増えていきます。それと同時に失業者も毎年、増えていくわけです。失業者をなくすためには、産業を起こさなければなりません。しかし、何かを造り出す産業では駄目なのです。それができてしまったら、また同じ事です。かと言って、何の役にも立たない馬鹿げた芸術品を作っても、赤字が増えるばかりです。利益になって終わる事のない産業が必要なのです。戦争をなくすには、何かそういう産業を見つけ出さなければならないのです」学者は言いたい事だけ言うと、また難しい本を読み始めた。

 物知りおじさんも競馬新聞もしぼんだ学生も、みんな、さすがに偉いと感心している。

「皆さん」とボロをまとった青年は言った。信じられないでしょうが‥‥‥と青年はまた演説を始めた。

 部屋の片隅では喪服を着た若い後家さんがピアノで「死の踊り」を弾いている。そばでは女装した男が気違いのように踊っていた。

 一升ビンを抱えた酔っ払いは、「俺、あんたの映画、観たぜ」と隣の女を眺めて言った。

「そう、ありがとう」と鏡を見ながら丹念に顔のしわを隠している三十年前の映画スターは言った。

「俺、昔から、あんたが好きだったんだ」と酒臭い息を女優に吹きかけた。

「そう」と女優は眉をしかめて、男を見ずに言った。

「あんたのケツを見るたびに、体がブルブル震えたもんだ」と酔っ払いは血走った目で女優の体を撫で回した。

「そう」と女優は言いながら、唇を真っ赤に塗った。

「しかし、あんたは若えよな、もう六十にはなったんだろ、え?」と言いながら酒をラッパ飲み。

「うるさいわね、酔っ払い、あっちへ行ってよ」と女優はくさい芝居をした。

「笑わせんねえ。誰がてめえみてえなババア、相手にするか」と酔っ払いはせせら笑った。

「よくも言ったわね、あたしは大スターよ。あんたなんか口をきく事だってできないのよ。あたしはあんたなんか相手にしてる暇なんてないのよ。忙しいんだから」女優は威厳を保って化粧を続けた。

「何が忙しいだ。頭がどうかしてんじゃねえのか。誰もおめえなんか相手にしねえよ。そのお化けみてえな面を一体、どこに出すんだ。気持ち悪くて、ヘドが出らあ、へっ」と女優の顔にツバを飛ばした。

 女優は今にも泣き出しそうな切ない顔をして、顔についたツバを拭き取り、精一杯の努力をして立ち直った。

「お前なんかチンピラなんかに本当の美しさなんて、わかるわけがない。あたしは誰にも負けない大女優なんだ。お前なんか飲んだくれにわかってたまるか」目の周りを真っ黒にして女優は言い切った。

 酔っ払いはとうとう女優に向かってヘドを吐いてしまった。ヘドを頭からかぶった女優は子供のように泣き叫んだ。

 酔っ払いはヘドを吐きながらも、「ごめん、ごめん」と謝っていた。「俺、本当に昔から、あんたが好きだったんだよ」とヘドにまみれた女優を優しく抱きしめた。

 酔っ払いの胸に顔をうずめ、子供のように泣き続ける女優。酔っ払いもヘドにまみれて泣いている。

 アコーディオン弾きが古いシャンソンをこの素晴しいラヴシーンのBGMに流していた。

 みすぼらしい格好をした貧しいカップルはたった一杯の熱いコーヒーを涙を流しながら、替わりばんこに飲んでいた。

「お父さん、いつまでも泣いててもしょうがないよ」と陽気なショートカットの娘は悲しみに沈んでいる父親に向かって言った。「お母さんはもう還ってこない。そんなに泣いてばかりいると天国のお母さんまで悲しむよ。ねえ、しっかりしてよ」

 娘に励まされた父親は真っ赤に腫れた目を娘に向けて、作り笑いをした。「お前が可哀想でな、お母さん、どうして、一人で行っちゃったんだろうな」と娘の短い髪を優しく撫でた。

「あたしは大丈夫よ。それより、お父さん、新しいお嫁さん、貰った方がいいよ。このままでいったら、お父さん、ダメになっちゃう。仕事も手につかないし、ねえ、お嫁さん、貰った方がいいわよ」娘は父親の事を心から心配して言った。

「そんな事、できないよ。そんな事したら、お母さんに怒られるよ」と父親は悲しそうな顔をした。

「大丈夫よ」と娘は元気づけた。「お母さんは怒らないわ。お父さんが幸せになってくれる事を願ってるのよ。ねえ、あそこにいる人なんて、どう? 素敵だと思うわ」

 娘は静かに本を読んでいる優しそうな女の方を見た。父親はその女をちらっと見て、「そうか」とどうでもいいような返事をしたが、死んだ妻の事などすっかり忘れて、いい女だなと鼻の下を伸ばしながら、娘に気づかれないように、本を読んでいる女を盗み見ていた。

「でも、お前とあまり年が違わないんじゃないのか。うまくないよ」と心と反対の事を言って、娘の反応を調べる。

「年なんて関係ないわ。あたし、訊いてきてあげる」と娘は父親の心を見抜いて、積極的な態度に出た。

 父親は慌てて娘を押さえた。「お前、訊いて来るって、何を訊くんだ?」とわかってるくせに、一応、たてまえとして娘に訊いた。

「お父さんのお嫁さんになってって頼むのよ」と娘は落ち着いて言った。

「そんな事、失礼だよ」と言いながらも目では早く行って、いい答えを聞かせてくれと哀願している。

「あたしに任せといて」と娘は張り切って出かけて行った。

 自分の娘と嫁さん候補が話をしているのを期待を込めてチラチラ見ている父親。

「あたし、結婚してるのよ」と本を読んでいた女は言った。「でも、ちょっと待ってて、主人に相談してみるわ」と娘に言い、隣でチェスをしている主人に声を掛けた。

「ねえ、あなた、あたし、プロポーズされちゃったけど、どう思う?」

 チェスに熱中している主人は、「ああ、そうか」と気のない返事をした。

「あたしをお嫁に欲しいんだって、行ってもいいかしら?」と女は、うちの主人はどうして、こうチェスが下手なんだろうと思いながら言った。

「誰が?」と主人は、これは最高の手だと思いながら駒を動かした。

「この娘のお父さんよ」と女はどうして、主人はこう馬鹿なんだろうと思う。

「ちょっと、その手、待ってくれよ」と主人は頼んだ。

「待てませんな」とチェスの相手は冷たく言った。

「畜生!」と主人は言うとチェスの駒をバラバラにした。

「おい、誰が嫁に行くんだと?」と初めて主人は顔を上げて女の方を見た。

 娘はその主人の顔を見るとポーっとなった。

「この娘のお父さんよ」と女は主人に言った。

「この娘の親父がどこに嫁に行くんだ?」そんな事、興味ないと主人はタバコをくわえた。

「違うわよ。あたしがこの娘のお父さんの所にお嫁に行くの」と女は主人に言い聞かせた。

 娘は素早くマッチをすって主人のタバコに火を付けてやった。

 主人は娘に礼を言う。

 娘は主人に見とれていた。

「おめえが嫁に行っちまったら、俺の飯は誰が作るんだい?」主人は現実問題を女に提出した。

「それはあなたが、またどっかで拾ってきたら」と女はそっけない。

「あたしが作ってあげる」と娘が憧れの王子様を見るようなキラキラした目で主人を見つめて言った。

「おめえが俺の飯を作ってくれるか」と主人は可愛い娘を値踏みする。「うん、おめえなら、うめえ飯を作れそうだ」と主人は娘に満足した。

「あたし、玉子焼きも野菜サラダもクリームシチューもホットケーキも何でも、あなたのために作ってあげる」夢を見ているような幸せいっぱいの顔をして歌うように娘は言った。

「それじゃあ、あたしはお嫁に行ってもいいのね」と女は、娘を抱きながら楽しそうに食べ物の相談をしている主人に言った。

「ああ、行っていいぜ」と主人は快く許した。「おめえの天ぷらとフライには飽きて来たからな、サラッとした物が食いたかったんだ。新しい旦那によろしくな」主人はサラッとした可愛い娘といちゃつく。

 女は読んでいた本を抱えて父親の所に行き、両手をついて、「よろしく、お願いいたします」と言った。

 父親はかしこまって、「こちらこそ」とやっとの思いで言った。

 女はニコッと笑った。

 父親は夢じゃないのかと心配になって、自分の頬をつねってみる。痛さと喜びがごっちゃになって、こみ上げて来た。

 ビキニ姿の美人が回しているルーレットの周りには、目をギラつかせた身だしなみのいい紳士たちが、ビキニ姿の気を引こうと財布の中身を空っぽにする事に熱中していた。

 ヘッドホーンを耳につけた娘はローラースケートを履いて、部屋中をグルグル回っている。目の前に障害物があろうと壁があろうと天井があろうと、お構いなしにローラースケートが進む方向に逆らわず、バランスも崩さずにうまい具合に乗っていた。

「知恵遅れって何の事?」と小さな男の子が積木で遊んでいる娘に訊いた。

「難しい事がわかんないのよ」と娘は赤い積木と青い積木を並べながら言った。

「お姉さんの事、みんな、そう言ってるよ」と男の子は娘が動かす積木を見ている。

「お姉ちゃんはね、いつまで経っても子供のままなの。だから、みんな、あたしの事、知恵遅れって言うのよ。大人の世界にはいっぱい難しい事があるのよ。不思議な事がいっぱいあるの。大人たちはね、毎日、そういう難しい事ばかり考えてるの。でも、本当は難しくも不思議でも何でもないの。子供にもわかる凄く簡単な事なの。でも、毎日、考えてばかりいるから、凄く難しい事なんだって思い込んじゃうのよ。お姉ちゃんはね、そういう難しい事なんて、全然、考えないの。ボクも大きくなったら大人になるけど、大人振ったりしちゃダメよ。疲れるだけで、ちっとも得なんてないんだから。いつまでも、子供のままの方が気が楽よ。笑いたくもないのに笑うなんて馬鹿げてるのよ」

「僕、笑いたくないのに笑ったりしないよ」と男の子は娘の前にしゃがみ、白い積木を手に取った。

「でもね」と娘は優しく言った。「大人振ってる人は笑いたくもないのに笑うのよ」

「どうして?」と男の子は純粋な質問をした。

「大人はね、笑ったり泣いたりするのにも、色々と難しい事を考えたりしてからするの。笑いたくてもね、色々と考えたりしてから、じっと我慢したりしてるのよ」

「大人って不思議だね」と男の子は白い積木の隣りに、何色の積木を置こうかと考えている。「僕、大人になんか、ならないよ」と黒い積木を白の隣りに並べた。

「そうね」と娘は男の子の積木の上にねずみ色の積木を置いた。「大人になんか、ならない方がいいわ。でも、今の世の中はね、大人にならないと生きていけないのよ。子供のままで生きていくのは、とても難しいし、勇気のいる事なのよ」娘の並べていた積木は極楽鳥になった。

「僕、できるよ。僕、絶対、できるよ」と男の子は自信たっぷりに言った。

「そうね、ボクならできるわね。ボクはお利口さんだもんね」と娘は男の子に優しく笑いかけた。

「うん。僕、笑いたい時しか笑わないよ。でも、泣きたい時も泣かないよ。僕、死んじゃったお姉ちゃんと約束したんだ。もう、絶対、泣かないって。だから、僕、泣きたくっても、決して泣かないよ」男の子は顔をくしゃくしゃにして、泣くのを一生懸命こらえていた。「僕、泣いてなんかいないよ。僕、絶対、泣かないんだ」

 娘は男の子を優しく抱き寄せた。男の子は我慢できなくなって泣いてしまう。

 二人の周りを極楽鳥が飛び回っていた。

「キャー、助けて! 誰か来て!」とセーラー服の娘が悲鳴を上げた。白衣を着た男が聴診器を片手に持って、娘の上にまたがり、真面目な顔で研究をしていた。

 セーラー服の娘は百ドル紙幣を片手に握り、大袈裟な悲鳴のわりには暢気な顔で、百ドルの使い道を悩んでいた。

 買い物袋をぶら下げた奥さん連中は他人の亭主の噂話に黄色い花を咲かせている。

 あどけない顔をした少女は隙のある人間を見つけてはポケットの中に手を突っ込み、何かをいただいていた。

 さっきまで、皆さん、信じられないでしょうが‥‥‥と演説をぶっていた青年は物真似で不幸を種に馬鹿な事を言って、みんなを笑わせている。さっきまで真剣に戦争やら貧困だのについて話し合っていた連中は腹をかかえて笑い転げていた。

 可哀想な娘の弔いを済ませた仲間たちは、心から娘の冥福を祈ってくれと、できたてのスープをみんなに配って歩いている。

 札束を紙くずのように扱っているブタのような男の周りでは、ミス○○と呼ばれるような美しいが、頭の中では風が吹いている女どもが、犬のようにブタの言いなりになっては、髪を振り乱し、カラフルな爪を立てて、紙くずの取りっこをしていた。

「おい、おめえ、聞いてんのか?」とアル中の男は安いウイスキーのびんを震える手でつかみながら、老いぼれた犬に話しかけていた。老いぼれた犬は神妙な面をして、アル中男の話を聞いている。

「俺はよう、一体、どこで間違った道を来ちまったんだろうな。昔は俺だってよう、まともだったんだぜ。どこで間違ったか、わかんねえなんて、だらしねえなあ、まったく。何か知らねえ間に変な方に流されちまったんだな。俺の意志なんか関係なくよ、馬鹿だよな。俺はいつだって、そうさ。自分で何かをやろうなんて思った事がねえ。人から頼まれりゃ、俺は喜んで何でもやった。一度だって断わった事なんかねえ。いや、断わる事ができなかったんかもしれねえ。でもよう、俺はいつだって一生懸命やって来たぜ。それが、どうだい。利用するだけ俺を利用してよ‥‥‥俺は誰も責めちゃいねえさ。結局、自分が馬鹿だったのよ。なあ、おめえもそう思うか?」

 アル中男はウイスキーを流し込むと「バカやロー」と老いぼれ犬を殴った。

 老いぼれ犬は抵抗もせず、何も言わず、悲しそうな目をして、アル中男を見つめていた。

「畜生め! 何とか言ったらどうでい。おめえまで、俺を馬鹿にしてるのか、畜生!」

 アル中はウイスキーをガブガブ飲んだ。

「おめえは馬鹿だよ。俺みてえに馬鹿だ。おめえだって若え時は随分、苦労したんだろ。少しは怒ったらどうだい。もう怒る事も忘れちまったのかい。畜生! おめえは利口だよ。そうよ、俺なんかより、ずっと利口だ。今頃、怒ったって始まらねえや。ふん、誰もわかっちゃくんねえ、くそったれめ!」

 老いぼれ犬はアル中男を見つめながら涙を流していた。

 心優しき死刑執行人は右手に小さなスイッチをつかんで、立派なイスに座り、やっと長く辛い人生から解放されたような安らかな表情で長い眠りについていた。

 神に仕える下僕(しもべ)となった金時計の洒落男は、尼さんに不浄の髪の毛を綺麗に剃ってもらっている。

 長い時間をかけて大事な拳銃を分解掃除していた警官は、やっと手入れし終わって、カッコよく拳銃を構えた。

 拳銃好きな赤毛の姉さんは浮浪者としっぽり濡れていた。

「おい、姉ちゃん、鉛玉が欲しいのはどこだ? えっ、ここか? ここか?」と警官は姉さんの汗で光る体を拳銃で撫で回した。

「うるさいわね」と姉さんは警官など相手にしない。

「何言ってんだ。お前の体は鉛玉が好きなんだろ」と警官はしつこく拳銃で姉さんを突っつく。

「あんたなんかに用はないのよ。どっかに消えてよ。うるさいね」姉さんは野良犬を追うように、シッシッと警官を追い払った。

「き、貴様」と警官は逆上した。「本官に向かって、シッシッとはなんだ。シッシッとは。たかが、たかが淫売の分際で本官を侮辱したな。よし、覚悟しろよ。公務執行妨害および本官を仲間はずれにした罪により、貴様は銃殺刑だ」

 警官は拳銃を両手で構え、姉さんの頭を狙った。

 姉さんは警官など全然、気にもせず、浮浪者と戯れている。

 警官は怒りに震えながら、引き金を引いた。

「バーン!」と銃声が部屋中に響き渡った。と同時に警官の悲鳴。警官は自分の両手を肘からふっ飛ばされて、血を流しながら転げ回っていた。

 顔に傷のある男が目を覚ました。

「何だ、今の音は?」と編み物をしている娘に問う。

「おまわりさんが、おもちゃで遊んでるのよ」と娘はそんな事、どうでもいいわと編み物をしている。

「そうか、俺はまた、この世が終わっちまったんかと思った」男は額の脂汗を拭いながら言った。

「大丈夫よ。まだまだ、世界は平和に動いているわ」と娘はニッコリする。「どうしたんです? ひどい汗、病気じゃないんですか?」娘は心配そうに男に言った。

「何でもない」と男は強がる。「お嬢さん、頼みがあるんだけど、俺をあのカーテンの所まで連れてってくれないか」男はやっとの思いで娘に言った。

「大丈夫ですか?」と娘は綺麗なハンカチで男の顔を拭いてやる。

「ありがとう。最期の頼みを聞いてくれ、お願いだ‥‥‥」男は蒼ざめた顔で言った。

 娘は、この男は死んでしまうんだと気づいた。娘は頷いて、男の肩をささえた。

 男は血が滲み出ている腹を押さえながら、苦痛に耐えて、カーテンのそばまで歩いた。

「カーテンを開けてくれ。死ぬ前にもう一度、娑婆(しゃば)の姿が見たい」男は死相の現れている顔を上げた。

 娘は重いカーテンを開けた。

 外はひっそりと平和な眠りについていた。

 東の空が明るくなり始めている。

「おてんとさんが昇る」と男は呟いた。「人間どもが、どんな馬鹿な事をしても、おてんとさんは必ず昇ってくれる。俺はいつも、おてんとさんに背を向けて生きて来た。まさか、死ぬ時になって、あんたに会えるとは思ってもいなかったぜ」

 男の膝がガクッとなった。

「大丈夫ですか」と娘は男の体をささえた。

「ありがとうよ」と男は言った。「可愛い子を産んでくれよ」と男は言って、精一杯の力を込めて笑おうとするが、顔がケイレンしただけで‥‥‥息、絶える。

 娘は男の顔を朝日に向けてやった。そして、太陽に、この名も知らぬ男の冥福を祈った。

 太陽の光が薄暗い部屋の中を照らし始めた。





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