酔雲庵


酔中花

井野酔雲








 五郎右衛門が朝稽古を終えて、朝飯を食べている時、お鶴はやって来た。

「おはようさん」とお鶴は笑いながら言った。

「おはよう」と五郎右衛門は飯を食べながら返事をした。

「今日もいいお天気ね。五エ門さん、もし、雨が降ったらどうするの?」

「わしは五郎右衛門じゃ。雨が降っても変わらん」

「風邪ひくわよ」

「そんな事はない」

「強いのね。毎日、自分でご飯、作ってるの?」

「当然じゃ」

「あたしが作ってあげましょうか?」

「いらん。そなたは毎日、何してるんじゃ?」

「あたし? あたしは毎日、何やってんだろ?あまり、そういう事、覚えてないのよ。ようするに暇なのかしら」

「寺では何かをしてるんじゃろ?」

「そうね。和尚さんのご飯を作るくらいよ。夜は和尚さんとお酒を飲んでるわ」

「御亭主の供養もしてるんじゃろ?」

「そうね、それもしてるわ。でも、死んだ人なんかどうでもいいのよ」

「仇を討つんじゃなかったのか?」

「討つわ。あなた、助けてくれるんでしょ?」

「縁があったらじゃ。相手はどんな男なんじゃ?」

「人から聞いた話だとね、髭面(ひげづら)の大男だったって言ってたわ。それと確かな事は夫よりも強い男よ」

「それだけか?」

「うん‥‥‥まるで、あなたみたいじゃない」

「わしかもしれんな」

「あなたであるわけないでしょ」

「御亭主の名は?」

「川上新八郎」

「知らんな」

「五エ門さん。あなた、何人ぐらい人を殺したの?」

「わしは五郎右衛門じゃ」

「どっちでもいいじゃない。ねえ、何人殺したの?」

「数えた事はないが相当な数じゃろうな」

「ふうん‥‥‥女は?」

「女など殺さん」

「泣かせた女は?」

「そんなもんは知らん」

「ほんとはかなりいるんでしょ?」

「ああ、百人じゃ」

「ほんと?」

「ああ。そなたを入れりゃ百一人になる」

「面白い人。あたしを泣かす気?」

「ああ、そのケツをひっぱたいてな」

「フフフ、そのうちね」

「ところで、和尚っていうのはどんな男なんじゃ?」

生臭(なまぐさ)坊主よ。毎日、日向ぼっこしてるわ」

「偉い坊主なのか?」

「さあ、ちっとも偉くなんか見えないわ。大した坊主じゃないんでしょ。面白い人だけどね」

「そうか」

「ねえ、あなた。また、棒振りやるの?」

「ああ」

「どうして? かなり強いんでしょ?」

「わしの剣はまだまだじゃ」

「よく昔の人が山奥で修行して、悟りを開いたとか言うけど、あれね? 悟りを開くまでここにいるの?」

「まあ、そういう事じゃ」

「頑張ってね。あたしも応援するわ」

 五郎右衛門は木剣を持って立ち上がった。

「今晩、お酒、持って来るわね。それと、ご飯もあたしが作ってあげる」

 五郎右衛門は立ち木に向かって木剣を振り始めた。





柳生新陰流木刀





10




 岩屋の中、五郎右衛門とお鶴が酒を飲んでいる。

「こういう洞穴の中で飲むお酒もわりとおいしいわね」

「わしはこの酒、飲んだ事あるぞ」

「あら、そう」

「ああ、観音様が持って来た酒と同じじゃ」

「観音様?」

「ああ。あいつじゃ」五郎右衛門は木像の観音様を示した。

「あんた、わりと冗談ばっか、言う人ね」

「そう言えば、そなた、観音様に良く似てるな」

「あら、良くわかったわね。あたしは観音様よ。そして、あなたは仁王様。あたしを守るのがあなたの仕事ね」

「そういう事じゃな」

「ねえ、五エ門さん。あなた、江戸に行った事ある?」

「ある」

「そう。あたし、行ってみたいわ。浅草に観音様がいるんでしょ?」

「小さな黄金の観音様がいるらしい。わしは見た事ないがのう」

「仁王様も?」

「でっかい仁王様が二人、入口で頑張ってるよ」

「ちっちゃい観音様を守るのに、でっかい仁王様が二人もいるの?」

「そうじゃ」

「さすがね。でも、あたしはあなた一人でいいわ。二人なんて、とても無理よ。体がもたないわ」

「お鶴さん。そなた、何を考えてるんじゃ?」

「何って、観音様の事じゃない。ねえ、もっと、江戸の事、聞かせてよ」

「わしは江戸で剣術の事しか考えてなかったからな。あまり知らんよ」

「じゃあ、何でもいいわ。話、聞かせてよ。何か面白い話ない?」

「それじゃあ、一つ、昔話でもしてやろう」

「色っぽいのを頼むわ」

「わかっておる。昔々、ある所にお爺さんとお婆さんがおったとさ。お爺さんは山に柴刈りに‥‥‥」

「ちょっと待って。それ、もしかしたら、桃太郎じゃない?」

「当たり」

「桃太郎くらい、あたしだって知ってるわよ。どこが色っぽいのよ?」

「桃から生まれた桃太郎が龍宮城に鬼退治に行って、乙姫様としっぽり濡れるんじゃろ。色っぽいじゃないか」

「どこが? 帰って来たら、おいぼれ爺さんの鶴になって、どこかに飛んで行くだけじゃない。鶴は千年、亀は万年、めでたし、めでたし。もっと他に知らないの?」

酒呑童子(しゅてんどうじ)はどうじゃ?」

「駄目。つまんないわ」

「面白いぞ。源頼光(みなもとのよりみつ)が四天王を引き連れて、大江山に乗り込んで行くんじゃ」

「つまんないったら。ただの鬼退治じゃない。あなた、鬼退治しか知らないのね」

「それじゃあ‥‥‥」

「一寸法師も駄目」

「それじゃあ、ハムレットは?」

「駄目。オフィーリアが可哀想よ」

「そうか、じゃあ『夢ケ池』ってのはどうじゃ?」

「何、それ?」

「悲しい恋の物語」

「うん。それ、行ってみよう」

「昔々、まだ武蔵野が一茫の野原での、江戸という地名はもとより、人家もほとんどなかった頃の事じゃ。浅茅(あさぢ)ケ原と言ってのう、今の浅草辺りらしいんじゃが、そこにポツンと一軒のあばら家があったんじゃ。それは汚い小屋だったらしいが、旅人にとっては極楽だったんじゃな。何しろ、辺り一面、原っぱで、うちなんか何もないんじゃ。仕方なく、野宿しようかと思っていると、ポツンと灯りが見えて来る。旅人はその灯りに引かれて、一夜の宿を頼むわけじゃ。そこに住んでるのは老婆と娘の二人っきりでな。その娘っていうのが、えらく別嬪なんじゃよ」

「ねえ、ねえ、あたしとどっちが綺麗?」

「そうじゃな。そなたの方が綺麗じゃろう。婆さんよりはな」

「何よ、この」

「それで、その娘っていうのは色白で目元涼しく、その美しい顔には何とも言えん哀愁が漂ってるんじゃ。それがまた魅力でな」

「あたしみたい」

「それで、旅人なんじゃが、その娘の美しさに放心して、ある者は恋人を思ったり、ある者は故郷に残して来た妻の事を思うんじゃ」

「思うだけで、その娘には手を出さないの?」

「出した奴も中にはいたじゃろうな」

「あなたみたいにね」

「うるさい。黙って聞いてろ。どこまで、話したっけ?」

「旅人が娘を口説く所よ」

「違うわ。ええと、娘じゃなくて老婆じゃ」

「あなた、老婆も口説いたの?」

「馬鹿、わしの話をしてるんじゃないわ。その老婆っていうのは、実は鬼婆なんじゃ。旅人が旅の疲れでぐっすり寝てしまうと‥‥‥」

「いいえ、それは違うわ。その旅人は娘を抱いたから疲れたのよ。そういういい女ってえのは男を疲れさすものなのよ」

「そうかい。とにかく、旅人はぐっすり寝てるんじゃ。老婆は石でもって旅人の頭を砕いて殺し、身ぐるみを剥がすと死体は近くの池に投げ捨てた。そうやって、老婆は何人もの旅人を殺して旅人の持ち物を盗んでいたんじゃ」

「娘はそれを黙って見てたの?」

「そう。そこが悲しい所なんじゃよ。老婆っていうのは娘の母親なんじゃが、母親にそんな事はやめてくれって言っても聞いてはくれん。旅人は助けてやりたいが、それには母親の悪事をすべて、さらけ出さなくてはならん。小さな胸を震わせて、毎日、悩んでいたんじゃよ」

「とか何とか言っちゃって、本当は自分も楽しんでたんじゃないの。きっと、その娘、淫乱(いんらん)なのよ」

「おい、勝手に淫乱にするな」

「それで、どうしたのさ」

「ある日の夕暮れ、一人の旅人があった。それが見目麗しいお稚児(ちご)さんじゃ」

「あんた、お稚児さんにも興味あるの?」

「わしじゃない、娘の方じゃ。娘がその稚児に一目惚れしたんじゃ。そこで、娘は考えた」

「可愛いちっちゃな胸で?」

「そうじゃ」

「そのお稚児さんと駆け落ちしようと?」

「違う。その夜も稚児が寝てしまうと、老婆は手慣れた石で頭を一気に砕いたんじゃ。ところが、明かりを近づけた老婆は悲鳴をあげると共に、その死骸に取りすがって泣いたんじゃよ」

「娘だったのね?」

「そうじゃ。稚児を助けるために娘は自分の命を捨てたんじゃよ」

「それで?」

「おしまい」

「お稚児さんはどうなったの?」

「腰を抜かして小便を漏らして逃げてったんじゃないのか」

「情けないわねえ。その娘が可哀想じゃない。どうして、そんな男のために命を捨てるのよ。わかんないわよ」

「娘は稚児だけじゃなくて、母親も救ったんじゃ」

「母親はどうなったの?」

「尼さんになって自分が殺した死者の菩提(ぼだい)(とむら)ったんだとさ」

「めでたし、めでたしね‥‥‥ねえ、もっと、(つや)っぽい話はないの?」

「どこかの殿様が愛する(めかけ)のアソコを食っちまったっていう話はどうじゃ?」

「アソコって?」

「ここじゃ」

「すけべ。あんた、ちょっと変態じゃないの?」

「馬鹿者、わしがそんな物を食うか。その殿様だって好きで食ったわけじゃない。食わされたんじゃ。色々と女どもの嫉妬がからんでるんじゃよ」

「やめてよ。そんな気色わるい話。今度は純愛物がいいわ」

「そんなもん、わしが知るか。今度は、そなたがやれ」

「そうね‥‥‥八百屋の七ちゃんのお話、知ってる?」

「知らん」

「知ってるわけないわね。今から六十年後の話よ」

「何、六十年後だと? まあ、好きにしろ」

「その年にね、江戸で大火事が起こるのよ。八百屋の七ちゃんの家も焼け出されてね、お寺に逃げ込むのよ。七ちゃんはまだ十五で、それはもう初々しくて可愛いの。あたしみたいよ」

「十年前のそなたじゃな」

「ううん」

「いてっ!」

「可愛い七ちゃんはね、お寺の境内を散歩してたのね。そして、寺小姓(てらこしょう)のよっちゃんていう美少年と出会うわけ」

「それは十年前のわしじゃな」

「ハハハ、笑わせないでよ、あなたが美少年だって‥‥‥かもしれないわね。あたしたち、十年前に会ってたらよかったのにね。二人ともまだ初々しくて‥‥‥あなた、十年前、何してたの?」

「十年前か‥‥‥江戸で剣術の修行してたのう」

「あなたはいつでも剣術なのね」

「そなたは何やってた?」

「あたし? 十年前はね‥‥‥もう忘れたわ。ええと、七ちゃんとよっちゃんはね、お寺の境内で偶然、出会ったのよ。その出会いが、また可愛いのよ。よっちゃんの指にとげが刺さって困ってたの。それを七ちゃんが優しく抜いてあげるのよ」

「そのお返しに、今度はよっちゃんが七ちゃんにとげを刺してやるのか」

「何言ってるの、この馬鹿。それが縁で、二人はこっそり会うようになるの。境内の木陰や物陰で幼い恋が芽生えるのよ」

「とげの抜きっこをするんじゃな」

「とげはもういいのよ。ところがね、焼けた七ちゃんの家が何とか住めるようになったんで、二人は別れなければならなくなったの。つらい別れだったわ。家に帰った七ちゃんは悲しいくらい、よっちゃんの事を思って苦しんだわ。会いたいけど会えない‥‥‥」

「どうして、会えないんじゃ? 会いに行けばいいじゃろう」

「あんたにはわかんないのよ、恋に悩む切ない乙女心が。七ちゃんはとても内気で、そんな大それた事なんてできなかったの。でも、下女に頼んで、手紙のやり取りはしてたみたい。だけど、とても、そんな事だけじゃ耐えられないわ。悩んでいるうちに一つの考えがひらめいたの。『もう一度、火事になればいいんだわ。そしたら、また、よっちゃんに会える』初めのうちは、そんな事はしちゃいけない、しちゃいけないって思ってたけど、とうとう、恋心の方が勝っちゃったのね」

「火を点けたのか?」

「そう、放火したの。でも、失敗してね、人に見つかって火は消されてしまうし、自分は捕まってしまうのよ。放火の罪は火あぶりの刑よ。七ちゃんは素直に放火の事を白状しちゃったわ。そして、火あぶりになって死んじゃったのよ」

「熱かったじゃろうのう。で、男の方はどうしたんじゃ?」

「自殺しようとしたけど人に止められて、高野山に登ったわ」

「ふん、つまらねえ男じゃ」

「あなたなら、どうする?」

「こうするよ」

「フフフ、優しくしてね。まだ十五の乙女なんだから」

「十五の乙女にしては酒臭えのう」

「お互い様でしょ。ねえ、五エ門さん、この刀、痛いんだけど」

「わかった。この帯も邪魔なんじゃがの」

「まったく、贅沢ね。でも、汚れそうだから脱ぐわ。ねえ、お互いに余計な物は、みんな、脱いじゃいましょ」

「そうするか」

「準備オーケイよ」

「よし」

「ちょっと、このヒラヒラしてるの邪魔よ」

「まだ、いいじゃろう」

「臭いのよ」

「そうか‥‥‥」

「あら、元気いいのね」

「そなたがいいオナゴじゃからのう」

「あら、嬉しい‥‥‥うぅ〜ん‥‥‥あたしのね、一番感じる所、ここよ」

「ここか?」

「そう、優しくしてね」

「‥‥‥」

「うん、いいわ‥‥‥痛い!」

「どうした?」

「これよ、石っころよ。背中の下にあったのよ。それに、(わら)をもっと敷いた方がいいわ。下がゴツゴツしてるんだもん」

「ごちゃごちゃ抜かすな」

「あぁ〜ん‥‥‥いいわぁ‥‥‥うぅ〜ん‥‥‥はぁ〜ん‥‥‥あぁ‥‥‥」

「おい」

「痛い! 放してよ」

「何の真似じゃ?」

「やっぱり、ばれちゃったか」

「ばれたかじゃねえ。何の真似じゃ?」

「気にしないで、冗談よ」

「何じゃと、お前は冗談で人の首に刃物を向けるのか?」

「ちょっと放してよ。みんな話すからさ」

「話してみろ」

「ああ、痛かった。ほんとに馬鹿力なんだから。腕が折れたらどうすんの?」

「何を言ってるんじゃ。わしの首を刺そうとしたくせに」

「あやまるわ。御免なさい」

「さあ、話せ」

「あのね、実は、あたしの夫の仇っていうのは、あなただったのよ」

「確かにか?」

「そうよ。針ケ谷なんて名前、滅多にないでしょ。でも、あんたは強いし、とてもじゃないけど、あたしには斬れないわ」

「それで、わしの寝首を掻こうと考えたのか?」

「そう。あたしに夢中になってれば大丈夫だろうと思って。あんたって本当に強いのね。あたし、死んだ夫じゃなくて、あんたの妻になってりゃよかったわ」

「そうか、わしが()ったのか‥‥‥」

「ねえ、あなた、あなたはあたしの仇討ちを助けてくれるって言ったわね。ねえ、お願いよ、助けて」

「お前、何を言ってるんじゃ。わしを殺すのをわしが助けるのか?」

「そうよ、一番簡単じゃない」

「馬鹿言うな」

「何よ、この嘘つき!」

「お前だって嘘ついたじゃろう」

「じゃ、おあいこか‥‥‥あたし、これから、どうしたらいいんだろう?」

「知らん」

「ねえ、よく考えてみて。あたしだけじゃないはずよ。あたしみたいな女が他にも何人もいるはずだわ。あたしがそういう悲しい女たちを代表して、あなたを斬るわ。だから、あなた、ねえ、協力してよ。死んで行った人たちの魂を弔ってやった方がいいよ」

「わしに坊主になれと言うのか?」

「坊主になったって駄目よ。あたしに斬られればいいのよ。どうせ、あなたもいつかは誰かに斬られるんだからさ、どうせなら、あたしに斬られて死んだ方がいいでしょ」

「今、わしはお前に斬られるわけにはいかん。わしはお前に斬られるために、今まで苦労して剣術の修行を積んで来たのではない」

「そんなの自分勝手よ」

「だから、もし、わしに隙があったら、いつでも、わしに斬りかかって来い。もし、わしがお前に斬られるようじゃったら、わしの剣術も役立たずじゃったと諦める。それでいいじゃろう」

「うん、まあ、いいわ。それじゃあ、そういう事にしましょ」

「ああ」

「寒いわ‥‥‥ねえ、抱いて」

「おい。わしとお前は仇同士じゃ」

「だって、途中だったじゃない。それとこれとは別でしょ」

「何が別なんじゃ」

「何がじゃないの、続きよ。仇同士になるのは明日からでいいじゃない」

「そうか‥‥‥今度は刃物なんか持つなよ」

「うん。持たない」

「よし。明日の朝まで休戦じゃ」

「う〜ん‥‥‥」




短刀 黒



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