11
次の日も五郎右衛門は日課通りに木剣を振ったりしていた。ただ、変わった事といえば、お鶴が食事を作ってくれる事と、どこからともなく飛び出して来ては、五郎右衛門に斬り付けてくる事だった。 五郎右衛門はお鶴の刀を軽くかわし、お鶴の事など完全に無視しているがごとく木剣を振り続けている。 彼が座禅をしている時は、後ろから忍び寄って斬ろうとするのだが、どういうわけか、お鶴は投げ飛ばされ、彼は座禅をしたままである。 何度やっても同じだった。五郎右衛門を斬るどころか、触れる事さえできないのに反し、お鶴の方はもう傷だらけである。 「その顔、どうしたんじゃ?」と五郎右衛門は夕飯の時、お鶴に訊いた。 「あなたがやったんでしょ」 「綺麗な顔が台なしじゃのう」 「顔だけじゃないわ。体中、傷だらけよ、どうしてくれるのよ」 「もう、諦める事じゃな」 「あたしだって、やめたいわよ」 「やめればいいじゃろ」 「あたしは、あなたを憎んでるのよ」 「どうして?」 「あなた、鈍感なの? あたしの夫を殺したのはあなたなのよ。あたしは夫を愛してたのよ。とても、とても愛してたのよ。あなたを憎むのは当然でしょ」 「そりゃそうじゃ」 「でもさ、あたし、うまく、あなたを憎めないのよね。どうしてかな」 「わしがいい男だからじゃろう」 「あなた、冗談を言ってる場合じゃないのよ。あたしたち、仇同士なのよ。わかってるの? こうやって一緒にご飯を食べてる事だって、ちょっと、おかしいんじゃない?」 「そうでもないぞ。わしは楽しい。今晩も酒を飲もう」 「あなたはわかってないわ。こんな所、人様に見られたらどうすんの? あたしの立場がないじゃない。人はみんな、噂をするわ。亭主が死んで、まだ、一年も経ってないのに他に男を作って一緒にお酒を飲んで遊んでるって。みんな、あたしに後ろ指さすのよ。もっと、 「どこに世間体ってものがあるんじゃ? こんな山ん中にいて」 「確かに、ここにはないけど。いいでしょ。あたしはあたしに言い聞かせてるのよ。あたしだって、ほんとは今晩もあなたと一緒にいたいの。でも、それはいけない事なのよ。だから、あたしはもう帰るのよ。止めたって、あたしは帰るわ」 「帰る、帰るって言ってるが、全然、帰る気配なんて見えんのう」 「うるさいわね。あたしは自分に言い聞かせてるって言ったでしょ。そんなにあたしに帰ってもらいたいの? いいわよ。もう、あんたなんか勝手にするといいわ」 お鶴は立ち上がり、五郎右衛門の木剣を杖代わりにして帰って行った。 「おい、お鶴さん」と五郎右衛門は彼女の後ろ姿に声を掛けた。 「おぬし、面白いオナゴじゃのう」 「ふん。もう、体中、痛くてしょうがないよ。明日はきっと起きられないわ」
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12
五郎右衛門は今日も木剣を振っている。 昨日は相当まいったとみえて、今朝、お鶴は来なかった。五郎右衛門は木剣を振りながらも、お鶴の事が気になっていた。 これではいかん!と、お鶴の事を断ち切るように木剣を振っても、お鶴の事が頭から離れなかった。 小川を誰かが歩いて来る音がした。お鶴が来た、と思って五郎右衛門は振り返った。 一人の坊さんが裾まくりして、杖を肩にかついで、ニコニコしながら、こっちに向かって来た。お鶴が世話になっている和尚だろう。 「成程、お鶴が惚れるのも無理ないわい」と和尚は五郎右衛門の顔を見ると言った。 「お鶴さんは大丈夫ですか?」 「なに、あのオナゴはそんなやわじゃない。今は痛い痛いと騒いどるが、明日になれば、また元気になるじゃろう」 「そうですか」 「ちょっと、お鶴に頼まれてのう。おぬしを斬って来いって言われたんじゃ」 「わしを斬る?」 「なに、坊主は殺生はせん。ちょっと、おぬしの顔を見に来ただけじゃ。お鶴の話じゃと、おぬし、悟りとかを捜しておるそうじゃな。悟りを捜すのは坊主だけかと思ったが、殺し屋稼業にも必要とみえるの」 「わしは殺し屋ではない」 「似たようなもんじゃ。人斬り包丁など振り回しておるのは人を殺すためじゃろ?」 「違う」 「悟るなどと無駄な事はやめて、さっさと山を下りた方がおぬしのためじゃ」 「わしが何をしようとわしの勝手じゃ」 「そりゃそうじゃがの。だが、無駄じゃと思うがの」 「無駄ではない」 「今のおぬしの剣は完全に死んどるのう。今のおぬしの剣では、わしのような坊主でさえ斬れんじゃろう」 「わしの剣は、そんなへなへな剣ではない」 「試してみるかな?」 「わしは坊主を斬る剣など持ってはおらん」 「喝!」と和尚は杖で五郎右衛門の頭を打とうとする。 五郎右衛門はその杖を木剣で受け止める。 「どうじゃな? わしを打ってみる気になったかな? 立ち木よりは、わしの方が手ごわいぞ」 「よかろう。それ程、叩かれたいと申すなら、叩いてくれるわ」 五郎右衛門はあらためて木剣を構えた。 和尚は右手に杖を持って立っているだけである。 「構えろ!」 「わしは坊主じゃ。剣の構えなど知らん。遠慮せずにかかって来い」 生意気なくそ坊主め!と五郎右衛門は軽く、小手でも打ってやるかと思った。が、なぜか、打ち込む事ができなかった。和尚を見ても隙だらけだ。しかし、打ち込む事ができない。こんな事は初めてだった。目の前の和尚が、やたらと大きく見えてきた。 彼は木剣を清眼から上段に振りかぶった。それでも、どうする事もできない。足を動かす事さえできなかった。 しばらく、二人は石のように動かず、向かい合っていた。 「どうじゃな?」と和尚が声を掛けた。 「負けた‥‥‥」と五郎右衛門は木剣を下ろした。 「わからん‥‥‥なぜじゃ? なぜ、わしは打ち込めなかったんじゃ」 「おぬしの心は何かに 「確かに、そうかもしれん」 「難しいのう」 「和尚は一体、何者なんです?」 「わしか、わしは 「えっ」 「冗談じゃよ。わしはただの禅坊主じゃ。剣の事など知らん」 「和尚、わしは一体、どうしたらいいんじゃ?」 「まず、お前の体に染み付いている新陰流をすっかり忘れる事じゃな」 「えっ、新陰流を忘れる?」 「そうじゃ。木剣振るべからず、座禅すべし。飯食うべからず、座禅すべし。眠るべからず、座禅すべし」 そう言うと和尚はスタコラと帰って行った。 『新陰流を忘れろ』とは、どういう事なのか? 五郎右衛門にはわからなかった。
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