酔雲庵


酔中花

井野酔雲





35




 五郎右衛門は和尚と立ち合っていた。

「できたようじゃな」と和尚は言った。

 五郎右衛門は刀を鞘の中に納めた。

「『相抜け』とでも申そうか。相手を生かし、己も生かす。何事にも囚われず、自由自在。名付けて、無住心剣(むじゅうしんけん)

「無住心剣?」

「うむ、お鶴の剣じゃな」

「無住心剣か‥‥‥」

「お鶴もきっと喜んどるじゃろ。あの女の事じゃから、お釈迦(しゃか)様相手に、おぬしの自慢でもしてるかもしれんのう‥‥‥さて、おぬし、これからどうする?」

「はい。この無住心剣の使い道を捜しに行きます」

「そうか、うむ」

「とりあえず、(みん)の国(中国)に渡ってみようかと思っています」

「明の国か、それもいいじゃろう。おぬしの無住心剣、どこに行こうと大丈夫じゃ。明の国に行って、もっと色んな人間を見て来るがいい」

「はい」






 

36






   およそ太刀を取りて敵に向かわば

            別の事は更に無く

    その間遠くば太刀の当たる所まで行くべし

            行き付けたらば打つべし

    その間近くばそのまま打つべし

            何の思惟(しい)も入るべからず


    かけたる事なき大空

     されど

     そこに

    何やら動くものあり

            進むべき道を進みゆく



                  無住心剣流 針谷五郎右衛門  





 五郎右衛門は紙にそう書くと丸めて、二つの観音像の前に置いた。


 お鶴の墓の前に座ると、墓に酒を飲ませた。

「空飛ぶ気楽な鳥見てさえも、あたしゃ悲しくなるばかり〜」と小声で歌うと、可憐に咲いている小さな花をちょこんとさわり、両手を合わせた。

 五郎右衛門は山を下りて行った。







37




 とうとう、五エ門さん、行っちゃったわね‥‥‥何だか淋しいわ。

 あたし、ほんとに五エ門さんに惚れちゃったのよね。

 おかしいわね。あたしが人間に惚れるなんて‥‥‥惚れるっていうのは苦しいものなのね。

 あたし、いつまでも、いつまでも、五エ門さんと一緒にいたかった‥‥‥

 でも、あたし、彼をだまし続ける事ができなかったの。どうしても、できなかった‥‥‥

 それに、彼のためにも、あたしがいたらダメなのよね‥‥‥これでいいのよ‥‥‥

 あたし、もう二度と人間には惚れないわ。絶対よ。もう二度と、こんな苦しい思い、したくないもん‥‥‥

 あ〜あ‥‥‥切ないな‥‥‥

 今回はフェラにも手伝ってもらっちゃった。わかった?

 あの、あたしを斬った浪人よ。フェラに頼んで、やってもらったの。

 何もわざわざ、あんな事する必要ないじゃない。消えれば済む事でしょて、フェラに言われたわ。

 でも、あたし、彼の前では、ずっと人間でいたかったの。人間のままで死んで、彼の思い出の中で生きていたかったの。

 ちょっと話に無理があったかもしれないけど、ああするしかなかったのよ。

 あ〜あ、こんな時はお酒飲むのに限るわね‥‥‥

 酔雲爺さんがいいわ。あの爺さんなら、あたしの気持ち、わかってくれるわ。

 爺さん、捜しに行こ。





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