酔雲庵


インプロビゼーション

〜閉ざされた闇の中から〜

井野酔雲







27.マイルス気取り




 与那覇警部は那覇に移った連続無差別殺人事件特別捜査本部に連絡して家宅捜索の許可を得ると、さらに、鹿児島県警に連絡して鑑識科を呼んだ。

 警部が捜査手続きをしている間、私と冬子は家の周りを一回りしてみた。玄関は勿論の事、勝手口も縁側に面した雨戸もすべて鍵が閉まっていた。

「ねえ、さっきから不思議に思ってたんだけど、警部さんたちはどうやって鹿児島にやって来たの」と冬子が聞いた。

「えっ?」と私は言った。そんなの飛行機に決まっているだろうと言おうとして、私たちが乗って来た便が最後の便だった事を思い出した。

「警察の飛行機で来たのかな」と私は言った。

「あっ、そうか。そうよね」と冬子は納得して笑った。

「飛行機じゃなくて、ヘリコプターかもしれない。沖縄は離島がいっぱいあるから、緊急時のためにヘリコプターを持ってるんじゃないのか」

「そうね、非常時だもんね。それに乗って来たのね」

 玄関の前に戻ると与那覇警部と津嘉山刑事が玄関の戸を開けようとしていた。二人の巡査と鹿児島から来た刑事がそれを見ている。

「鍵師を呼んだが、一時間半も掛かるらしい」と警部は私に言った。「こんな所で一時間半も待ってられるか」

 そうは言っても、玄関の引き戸は簡単には開きそうもなかった。仕方なく、勝手口のドアを調べたが、こちらも鍵を破らない限り開きそうもない。

 唯一、入れそうなのは風呂場にある小さな窓だった。ガラスを割らなければならないが、それ以外に方法はなかった。

 与那覇警部は窓を睨みながら考えていたが、「殺人犯をいつまでも野放しにしておくわけにはいかん」と強い口調で言って、津嘉山刑事にガラスを割るように指示した。

 津嘉山刑事はうなづくと車に戻り、スパナを持って来て窓ガラスを割った。思っていた以上にガラスの割れた音が響き渡った。

 津嘉山刑事は軍手をはめて、窓枠に残っているガラスをはずし、家の中にもぐり込んだ。

 私たちは玄関に戻った。やがて、明かりがついて玄関の戸が開いた。

「電気はまだ来ているらしい」と警部は言って私の顔を見た。

 私はうなづいた。電気が止まっていたら懐中電灯で家捜しをしなければならない。そんな事をしていたら夜が明けてしまうだろう。

 玄関に入ると廊下が奥までつながっていた。部屋は廊下の左右にあるらしい。私たちは靴を脱いで家に上がった。

「わかっているだろうが、素手で物に触らないでくれ」と警部は私と冬子に言った。

 私と冬子は両手を見せた。二人ともすでに手袋をはめていた。

 上がってすぐの左側は応接間になっていた。ソファーとアームチェア、テーブルがあり、サイドボードにはスコッチやコニャックが並んでいる。壁に相撲取りの写真が飾ってあった。誰だかわからないが鹿児島出身の力士なのだろう。テーブルの上には一月の日付の付いたビッグコミックオリジナルが置いてある。ガラス製の灰皿もあったが吸殻はなかった。

 右側は台所でテーブルとイスが四つあり、テーブルの上も流しの中も食器棚の中も綺麗に片付いている。冷蔵庫の中を見ると缶ビールが二本と冷凍食品がいくつか入っているだけだった。

 左側の応接間の隣には八畳の和室が二つ並んでいて、手前が茶の間で奥が寝室のようだった。茶の間にはこたつがあり、テレビがあり、仏壇があった。その部屋も綺麗に片付いていた。こたつの上にテレビ番組の雑誌があって、一月十五日の所が開いたままになっている。直樹は一月十五日にこの家から出て行ったようだ。奥の間の床の間に水墨画の掛け軸と値打ちのありそうな壺が飾ってあった。

 右側の台所の隣は洋間で、直樹の部屋らしい。その部屋に入った途端、「すごい」と冬子が声を上げた。冬子の言う通り、確かにすごい部屋だった。

 その部屋はジャズの部屋だった。壁にはマイルス・デイヴィス、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーン、ビリー・ホリディなどジャズの巨人のポスターが飾ってある。ステレオと大きなスピーカーがあり、トランペットも飾ってあった。棚の中には千枚以上のLPレコードがありそうだ。

「トランペットがあったな」と警部がニヤリと笑った。

「奴がこれ程のジャズ気違いだったとは驚きだ」と私は棚の中のレコードを眺めながら言った。

「あれはどういう意味なんだ」と警部がトランペットの上の壁に貼ってある英語を見ながら聞いた。

「インプロビゼーション、即興演奏です」と冬子が説明した。「アドリブ」とも言います。

「ふーん」と警部は言って、「これは内密な事なんだが、殺しのあった場所の近くでトランペットの曲を聞いている者が何人かいたんだ。奴は殺しの後、インプロビゼーションとやらをやっていたらしいな」

 警部は部屋の中を見回すと、机の上にあるジャズの雑誌の下から何かを引っ張り出した。額に入った写真だった。

「奴だ」と警部は言って、その写真を見せた。

 前田直樹がマイルス・デイヴィスを気取ってトランペットを吹いている姿が写っていた。

 冬子も覗いて、「カッコいいじゃない」と言った。

 警部は冬子を見て笑うと、額を机の上に立てて部屋から出て行った。私も後を追った。その先は洗面所と風呂場とトイレがあるだけだった。

「家の中が綺麗すぎるな」と警部は渋い顔をした。「奴は指紋を拭き消して出て行ったのかもしれん。しかし、すべてを消し去る事はできんさ」

 私は冬子がいる直樹の部屋に戻った。冬子は棚の側に座り込んで、レコードジャケットの背に書いてあるタイトルを読んでいた。

「すごいわねえ」と私の顔を見ると目を輝かせて言った。「欲しいレコードがいっぱいあるわ。これ、みんな聴いたのかしら」

「そりゃあ、聴いただろうね。でも、このレコードを集めたのは奴じゃないような気がする。奴は君と同じ位の年齢(とし)だろう。レコードというよりCDで育った世代だ。奴の親父か、もしかしたら、前田上等兵が残した物かもしれない」

「そうよね。あたしだって最初に買ったのはCDだったもの」

「それにしてもすごい。これだけレコードを持っていればジャズ喫茶がやれる」

「隣のお婆ちゃん、喫茶店をやろうとしてやめたって言ってたわ。ジャズ喫茶をやろうとしたんじゃない。もしかしたら、事故で亡くなった両親の保険が下りたかもしれないし」

「そうだな。ジャズ喫茶をやるつもりだったが、中山が訪ねて来たので、取りやめにして殺人旅行に出たんだな」

「でも、この部屋の住人と連続殺人魔が同一人物だとは思えないわ」

「そうだな」と言って、私はもう一度、部屋の中を見回した。確かに冬子の言う通りで、ジャズ気違いと連続殺人は結びつかなかった。

 まさか、即興のつもりで人を殺し回っているのではあるまい。いや、無差別殺人というのは即興なのかもしれない。

 机の上にあるパソコンの外付けハードディスクが目に入った。パソコン本体はない。多分、持って行ったのだろう。ハードディスクの中に何が入っているのか気になった。

 冬子に言うとうなづいて、車の中から自分のパソコンを持って来た。冬子のパソコンにつないで中を見ると、その中にはすべてのレコードが入っていた。

「すごい」と冬子はまた言った。

 与那覇警部と津嘉山刑事が入って来て、冬子のパソコンを覗いた。

「何が入っていたんですか」と津嘉山刑事が聞いた。

 冬子は棚を示して、「これが全部入ってるみたいです」と答えた。

「他には何か入ってないのか」と警部が聞いた。

 冬子はスクロール・バーを移動して最後まで見てみた。英語のタイトルがずらりと並んだ後に「アイドル」というファイルがあった。そこを開くとジャズ・ミュージシャンの名前が並び、一つを開いてみるとミュージシャンの画像が入っていた。元に戻って、後ろまで見るとジャズ・ミュージシャンではない女優の名前がいくつか並んでいた。開くと女優の画像が入っていた。

「他には何か入ってないのか」と警部がまた聞いた。

 冬子はまた元に戻って捜したが、それ以外は入っていなかった。

 警部は、「くそっ」と言って、机の引き出しを開けて中を調べた。

 私は別の部屋に行ってみた。どの部屋を見ても普通の家庭と何ら変わる事なく、ここの住人が殺人鬼だと思わせる物は何もなかった。奴が本当に犯人なのか、信じられなくなりそうだ。

 中山淳一を名乗って沖縄にいたのは紛れもなく前田直樹だ。しかし、奴が第一外科壕で島田早紀子を殺した証拠はない。奴は坂口一等兵が残した手記を持っていた。この家に中山淳一が来たのは間違いない。しかし、家の中には中山が来たという形跡は見つからなかった。

 私は茶の間にある仏壇を開けてみた。新しい位牌が二つあり、古い位牌が三つあった。小さな額に入った写真があったので、手に取って見ると子供が二人、写っていた。直樹と妹の優子のようだった。妹が亡くなる前に撮ったものだろう。二人とも楽しそうに笑っている。池田湖をバックに撮ったようだった。私は写真を元に戻した。

 与那覇警部が側に来て、顔をしかめて首を振った。

「よく映画に出て来るだろう」と警部は言った。「猟奇的な殺人犯の部屋に入ると、死体の写真やら、変態的な気持ち悪い写真やらが飾ってある。そんなのを期待していたんだが、この家にはそんな物は何もない。奴が本当に犯人(ほし)なのか、わからなくなって来た」

「まったくですね」と私はうなづいた。

「後は指紋だけが頼りだ。しかし、指紋が一致したとしても奴が今、どこにいるのかは見当もつかん。那覇空港は封鎖したが、それ以前に出て行ってしまったなら捜すのは難しくなる。奴が中山の夢を継いで、日本一周を続けるつもりなら、東北か北海道に飛んでしまったのかもしれん」

 犯人の殺人旅行は静岡県の伊豆か、あるいは島根から始まって、山口、鳥取、徳島、愛媛、宮崎、沖縄と続いている。次に行くとすれば関東、北陸、東北、北海道という事になる。那覇から一気に北海道まで飛んでしまったのだろうか。

 鹿児島市から鑑識課が来たのは十二時近くになっていた。鑑識課だけでなく、刑事もどやどやとやって来て、部外者の私と冬子は家の中から追い出された。

 外に出ると家の前の庭は車で埋まってしまい、夜中だというのに野次馬が大勢集まって来て、巡査が通せん坊をしていた。私たちは車に戻ったが、周りを車で囲まれてしまっているので、動かすのは不可能だった。

「どうするの。出られないわよ」と冬子が警察の車を見回しながら言った。

「スイートルームで乾杯するのはキャンセルするしかなさそうだな」と私は残念そうに両手を広げた。

 冬子も仕方ないというように両手を広げて、「今夜は寝ずの番なの?」と聞いた。

 私は笑って、「きっと、静斎さんも今夜は寝られないだろう。今頃、君の事を心配しながらやけ酒を飲んでいるんじゃないのか」

「あたしたちはお酒もないのね。空港で買ってくればよかったわ」

「この状況で酒は飲めないだろう」と私は何台もあるパトカーを見てから、運転席に乗り込んだ。

 冬子は助手席に座るとパソコンを開いて、「充電しちゃった」と笑った。「ついでにコピーもしちゃった」と言って舌を出した。

「何をコピーしたんだ」と私はパソコンを覗きながら聞いた。

「チャーリー・パーカーとバド・パウエルとソニー・ロリンズとMJQとクリフォード・ブラウンよ」

「泥棒だぞ」と私は言った。

「証拠物件よ」と冬子は言って、バド・パウエルを再生した。

 バド・パウエルのピアノが心地よく響いて来た。冬子が言う通り、うまい酒を飲みながら聞きたい曲だった。

「指紋が一致すれば、彼が犯人という事になるんでしょ」と冬子が言った。「そうなると彼は指名手配されるの?」

「多分ね。指名手配されて、写真が公開されれば、彼はもう逃げられないだろう」

「でも、真一さんはどうなるの? 犯人が捕まってしゃべるまで待つの?」

「いや、そんなに待ってはいられない。早いうちに捜さなくちゃ」

「真一さん、生きていると思う?」

「殺されたとは思いたくない」

「明日、沖縄に戻って、またガマ捜しをするのね」

「それしか方法はないようだね」

「どうして、彼は殺人鬼になっちゃったの? あの手記を読んだから?」

「わからない。俺たちは彼の事を知らなすぎるよ。ジャズが好きでトランペットを吹いて、両親が交通事故で亡くなって、妹が五歳で死んで、沖縄戦に行った祖父さんが事故死をして、キアヌ・リーブスみたいなサングラスを掛けている事しか知らない。彼がどんな生き方をして来たのか、過去に何があったのか、それを調べなければ、彼の行動は理解できない」

「近所の人に聞き込みをしなきゃダメね。こんな夜中じゃ」と言って冬子は野次馬たちを見て指差した。

 私も野次馬たちを見てから冬子にうなづいた。「聞いてみる価値はありそうだな」

 冬子はバド・パウエルのピアノを止めて、パソコンをシャットダウンした。私たちは車から降りて、野次馬たちの群れに向かった。




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