酔雲庵


インプロビゼーション

〜閉ざされた闇の中から〜

井野酔雲







34.メモリーズ・オブ・ユー




 私と冬子は恩納村のリュミエールホテルに向かっていた。車の中にはクリフォード・ブラウンのトランペットが流れていた。私にはそのトランペットの調べがやけに悲しく、葬送曲のように聞こえた。

 前田直樹もトランペットを吹いていた。もしかしたら、直樹は日本最南端のあそこでトランペットを吹いていたのかもしれない。そして、近づいて来た一人旅の娘を殺したのかもしれなかった。指宿の直樹の部屋に『インプロビゼーション』と書かれてあった。海に向かって即興曲を吹いていたのかもしれない。

 静斎が吹いた尺八も後で聞いたら即興曲だったという。静斎の曲に感じるものがあった直樹は何も考えずに私たちの前に現れた。彼がどんな風にトランペットを吹くのか知らないが、かなりうまいのかもしれなかった。

「いい天気ね」と冬子が助手席で言った。

「そうだな」と私は言った。

 海が青く輝いていた。今朝、波照間島から石垣島まで行く間、空はどんよりと曇っていて、海もくすんだ色をしていた。

「ねえ、仕事も終わったし、もう帰るの」

「そうだな。明日、帰ろうかな」

「一日位、のんびり休めばいいのに」

「そうしたいが、向こうで俺を待っている人がいるかもしれない。一週間も留守にしているからな」

「そう」と冬子は言った。

 私が冬子を見るとぼんやりと海を眺めていた。

「君はいつまでいるつもりなんだ」

「そうね。これからみどりと一緒に真一さんの部屋を片付けて、名護のみどりのアトリエで二、三日、のんびりしてから帰ろうかな」

「東京に帰ったら、静斎さんのあの邸宅に住むのか」

「あのマンションはもう引き払っちゃったし、お父さんが一人で住むには大き過ぎるものね。一緒に住んであげるのよ」

「静斎さんは食事なんかどうしてるんだ。自分で作るとは思えないけど」

「それが結構、料理もやるのよ。お父さん、一人でビーチハウスに籠もる事がよくあるじゃない。そんな時は一人で買い物をして一人で料理を作って食べてるのよ」

「へえ、静斎さんが料理を作るとは意外だな」

「料理って言っても、御飯のおかずというよりお酒のおつまみって感じの料理が多いけど、意外においしいのよ」

「尺八もうまいし、何でもやるんだな、静斎さんは」

「何をやっても、すべて絵に通じるものがあるって言ってるわ」

「すべて絵に通じるか。うん、静斎さんならそうだろうね」

 リュミエールホテルには三時少し過ぎに着いた。この前、訪ねたのは三日前だったが、その間に色々な事があって、もっとずっと前だったような気がした。あの時、生きていたレストランの主任の大城美津子はいないし、支配人の日高もいなかった。

 静斎は忙しい旅だったので疲れたと言ってホテルで休んでいた。せっかく日本最南端の波照間島に行ったのにのんびりする事もなく那覇に戻って来た。やはり、静斎も歳にはかなわなかったらしい。今晩は早いうちに必ず戻って来るんだぞと念を押して、私たちを見送った。

 田島真一は無事に救出された。私の仕事はそれで終わったわけだが、まだ納得できない事があった。川上会長から確認するべき事が残っていた。

 前もって電話を入れておいたので、川上会長は待っていてくれた。私たちはフロントに声を掛けて、会長室に向かった。

 私たちを迎えた会長は三日前とは違って、急に歳を取ってしまったように頼りなかった。孫娘を失った事が相当ショックだったのだろう。立っているのもやっとのようだった。

 私たちは前回と同じようにソファーに座って、会長と対面した。

「与那覇警部から聞いた。お手柄だったらしいのう。奴をよく捕まえてくれた。美津子に代わってお礼を言うよ」

 会長はそう言って悲しそうに微笑した。

「美津子さんと日高さんはお気の毒でした」と私は言った。他に言いようがなかった。

「今頃になって、戦争の(むく)いがやって来るとは思わなかったよ」と会長は苦しそうな顔をして言った。

「わしは沖縄戦でとんでもない事をしてしまったんじゃ。それが極限状態だったとしても、決して許されない事をしてしまったんじゃ。陸軍病院が解散になって、わしらは艦砲弾が次々に炸裂する中をさまよって、ようやく隠れられるガマを捜し出した。しかし、そのガマには近所の住民たちが避難していて、わしらが入れる隙もなかった。このままでは死んでしまうと思ったわしは自分の命欲しさで、今からここは日本軍が使用する。民間人は出て行けと言ったんじゃ。後は前田や田島が拳銃で脅して住民たちを追い出した。その中には赤ん坊もいたし、小さな子供もいた。わしのような年寄りもおった事じゃろう。彼らが出て行ったガマに入って、わしらは死なずにすんだと一安心した。わしらは沖縄を守るためにわざわざ鹿児島からやって来た。兵隊が住民を追い出すのは当然の事なんだと自分に言い聞かせた。しかし、その事はずっとわしを責め続けた。前田がわしを強請(ゆす)ったのもその事だったんじゃよ」

「それで前田上等兵を殺したのですか」

 会長は首を振った。

「信じないかもしれんが、あれは日高が勝手にやってしまった事なんじゃよ。あの頃の前田はもう隠居生活をしていたようなものだった。度々、わしを強請ったが殺そうと思う程の額じゃなかった。奴はアメリカの捕虜になってハワイにいた時にジャズに魅せられた。日本に帰って来てからジャズ演奏が聞けるキャバレーを開いたが、失敗してしまうんじゃ。その時、まだわしは鹿児島にいて親から継いだ映画館をやっていた。奴が最初にわしを強請ったのはその時じゃ。その時は坂口も強請られたらしい。坂口はその後、土地を売って鹿児島からいなくなった。わしも映画館をやめて、沖縄に移って来た。前田がわしの前に現れたのは、沖縄に移ってから十五年後の事じゃった。前田はジャズのレコードが欲しいから、いくらか貸してくれないかと十万円を要求したんじゃよ。わしは十万位ならいいじゃろうと貸してやった。毎月のように十万を要求して来て、わしは奴に送ってやった。その事を甥の日高が気づいてしまったんじゃ。わしは十万円位だから放っておけばいいと言ったんじゃが、日高はわしがもっと大金を払っていると勘違いしたんじゃろう。ある日、日高は鹿児島に行って来たと言った。指宿に行って前田秀雄を消して来たと言ったんじゃ。わしは愕然としたよ。なんて事をしてしまったんじゃと怒鳴ったが、自首しろとは言えなかった。日高が自首すれば、前田がわしを強請っていた理由が明るみに出てしまう。わしはそれが恐ろしくて、日高を庇ったんじゃよ」

 会長はテーブルの上で強く握り締められた自分の両手を見つめていた。

「田島上等兵と今村一等兵の事は前田の一存で決めた事だったのですね」

 会長は顔を上げると力なくうなづいた。

「後で聞いた事なんじゃが、前田は金城さんという女学生を狙っていたんじゃよ。しかし、金城さんは田島上等兵に好意を寄せていたんじゃ。金城さんを抱くために田島を殺したと前田は言った。今村を殺したのは数合わせをしただけだと笑った。まったく、恐ろしい奴だと思ったよ。女を抱きたいために仲間を殺すとは情けない奴だと思った。わしがさげすみの目で見ていたら、お陰で川上伍長だっていい思いをしたじゃないですかと言った。確かにその通りで、わしは何も言えなかった。田島と今村がいなくなった後、女学生たちは私たちも国頭突破に行きたかったと言っていた。前田は俺の傷が治ったら一緒に連れて行ってやると言っていた。金城さんをうまく(だま)して、前田は金城さんを抱いた。金城さんは初めのうちは抵抗していたが諦めたのか前田の言いなりになった。坂口も前田の真似をして宮城さんを無理やり抱いた。抱いたというより犯したと言った方が正しいじゃろう。わしは二人のやっている事を見ない振りをした。新垣さんがやめさせてくれと頼んだが、傷が痛くて動けない振りをしていたんじゃ。わしは情けない男だったんじゃよ。前田の上官だったが、前田には逆らえなかったんじゃ。奴はわしを利用して悪い事ばかりやって来たが、わしは奴を怒る事もできない気の小さい男だったんじゃよ。前田は一日に何度も金城さんを抱いていた、坂口も真似をして宮城さんを何度も抱いた。宮城さんは声を殺して泣き続けていた。わしもたまらなくなって新垣さんを抱いてしまったんじゃ。新垣さんは抵抗しても無駄だと思ったのかおとなしかった。まさか、あの時、妊娠したなんて、わしは全然、知らなかった」

 女を奪うために田島上等兵が殺されたなんて真一にはとても言えなかった。今村一等兵はただ数を合わせるためだけに殺されている。陸軍病院で大勢の死を見て、人を殺す事なんて何とも思わなくなっていたのだろうか。あの時、そこら中に死体が転がっていた。死体が一つや二つ増えた所でどうって事ないと思ったのだろうか。前田上等兵の異常な性格が、孫の直樹に遺伝したのだろうか。私にはわからなかった。

「前田直樹がここでトランペットを吹いたそうですが、この部屋で聴いたのですか」

「いや、ここではない。二階の会議室じゃ。企画会議をしていたら、外からトランペットが聞こえて来た。何の曲だかわからんが、なかなかうまかった。窓から外を見たら、若い男が小さなトランペットを吹いていて、その周りに何人か聴いている者がいた。わしらも会議を中断してしばらく聴いていたよ。三曲目に『(きら)めく星座』を吹いた。知っているかね。戦時中に流行った灰田勝彦の歌だ。あんな若い者がよくそんな古い歌を知っているなと思いながら聴いていたんじゃが、ふと前田上等兵の顔が浮かんだんだ。奴もよく口ずさんでいた。わしは日高に誰だか調べろと命じて、顔が見たくなって海辺に下りたんじゃ。しかし、急に雨が降って来て、そいつは引き上げて行くところじゃった。それでも顔は確認できた。面影が前田上等兵に似ていたんじゃ。奴の孫に違いないとわしは思った。孫がわしを強請りに来たのかと思ったんじゃ。しかし、奴は何もしないで次の日、去って行った。それから二日後、みどりさんと女探偵がやって来て、坂口一等兵の孫が坂口の手記を持って沖縄に来た事を知った。さては前田の孫と坂口の孫が一緒になって、わしを強請りに来たのかと恐れたよ。そして、日高がいなくなり、美津子がいなくなった。あの時、トランペットを吹いていたあいつが連続殺人犯だったとは、まったく驚いたよ」

 会長は疲れたように溜息をついた。冬子を見ると身動きもせず、姿勢を正したまま会長の話を聞いていた。

「最後にもう一つ、伺いたいのですが」と私は言った。

 会長は黙ってうなづいた。

「田島真一さんの部屋ですが、荒らしたのは会長の差し金ですか」

「あれはすまない事をした。美津子がさらわれて、わしはかっとなって、昔、貸しのあったやくざ者に前田と中山の二人を見つけ出してくれと頼んでしまったんじゃ。手掛かりが見つからなくて、田島君の部屋に押し入ってしまったようじゃ。田島君にはあとでちゃんと借りは返すつもりじゃ」

 会長は両手を引っ込めると膝の上に置いて、疲れきった顔を上に向けて、目をしばたいた。急に歳を取っただけでなく、急に小さくなってしまったように思えた。

「お話していただき、ありがとうございました」と私は頭を下げて立ち上がった。

 冬子も立って頭を下げた。

 壁に飾ってある写真が私の目に入った。よく見ると映画館のようだった。

「昔、やっていた映画館ですか」と私は会長に聞いた。

 会長は写真を見て、うなづいた。

「一九五〇年代から六〇年代に掛けて映画産業はよかった」と会長は言った。「七〇年代になったら、もうやっていられなくなってしまった。わしは映画を捨てて、沖縄にやって来たんじゃよ」

「そうでしたか。それで懐かしい映画のポスターが飾ってあるのですね」

「見たかね」と言って会長は微かに笑った。「わしの言った事を公表するつもりかね」と会長は聞いた。

 私は首を振った。「私は探偵です。守秘義務というものがありますから」

「君を信用しよう」と会長は言った。

 私たちは会長と別れた。




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