沖縄の酔雲庵


尚巴志伝

井野酔雲







誕生




 六百年以上も前、その島にはまだ名前がなかった。

 島の人たちは『大島(うふしま)』と呼び、中国の商人たちは『琉球(りゅうきゅう)』と呼んでいた。ヤマトゥ(日本)の人たちは遠い昔、『オキナガ』あるいは『アコナワ』と呼んでいたが、中国の商人たちの影響で『琉球』と呼ぶようになっていた。

 その島は鹿児島から南へおよそ六百キロの距離にあり、鹿児島から屋久島を目指して船出して、トカラ列島を右に見ながら奄美大島に行き、徳之島、沖永良部島(おきのえらぶじま)、与論島と島伝いに行くと、ようやく見えてくる。

 その海上の道は古く、縄文時代の頃から利用された。南の島々からイモガイ、ヤコウガイ、タカラガイなどの貝類がヤマトゥへと運ばれ、ヤマトゥからは装飾品の勾玉(まがたま)や石器となる黒曜石などが南の島々へ運ばれた。奈良時代の遣唐使(けんとうし)もこの航路を利用して唐の国に渡った。平安時代になると大量のヤコウガイが奥州の平泉まで運ばれて、中尊寺(ちゅうそんじ)金色堂(こんじきどう)螺鈿(らでん)細工に使用された。

 伊豆大島に流された源為朝(みなもとのためとも)が伊豆大島を脱出して、その島に流れ着いたという伝説や、壇ノ浦で滅ぼされた平家の落ち武者が、その島まで逃げて来たという伝説も残っている。




 珊瑚礁(さんごしょう)に囲まれた南北に細長いその島(沖縄本島)の南部、東側の海に面した所に『佐敷(さしき)』と呼ばれる(しま)がある。『馬天泊(ばてぃんどぅまい)』という港があり、遠くヤマトゥの国からやって来た商船が二(せき)、今、入って来たところだった。二隻の船は網代帆(あじろほ)を下ろして、ゆっくりと港に入って来る。『八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)』と書かれた旗が風に吹かれてひらめいていた。

 すでにヤマトゥ(ぶに)が来るのを知っていたのか、浜辺には大勢の人が集まって、小舟(さぶに)がヤマトゥ船を目指して漕ぎ出していた。法螺貝(ほらがい)が鳴り響き、太鼓が打ち鳴らされて、まるで、お祭りのような賑やかさだった。

 久し振りのいい天気で、青い空が広がっている。海も日差しを浴びてキラキラと輝いていた。それでも、海から吹きつける北風(にしかじ)は冷たかった。

 歓声をあげている大勢の村人に混じって、ヤマトゥ船をじっと見ている老人の姿があった。年季の入った杖を突いて、白い髭を風になびかせ、威厳のある顔つきでヤマトゥ船を見つめていた。




 すっかり日が暮れて、空には満月が輝いている。

 月明かりの夜道をのんびりと歩いているのは先ほどの老人だった。時折、首を傾げながら、何か物思いにふけっているようだ。

 風が吹いてきて、草木がざわめいた。

 ふと顔を上げた時、老人の目に不思議な光が目に入った。山の中から白い光が天上へと向かっている。

「何事じゃ?」と老人は立ち止まって、しばらく光を見つめていた。

 山火事か。いや、そうではなさそうじゃ。

 誰かが篝火(かがりび)でも焚いているのか。いや、篝火の光があんな風に上に向かって光るはずはない。

 老人はその光に誘われるように山の中へと入って行った。

 不思議な光だった。常に老人の前方に見えて、分かれ道に来ると曲がるべき道を教えてくれた。

 やがて、(やぶ)の中に大きなガジュマルの木が見え、その木のそばに小屋が建っていた。ガジュマルの木の下に、丸い大きな石があって、その石がまるで月のように光って、その光がガジュマルの葉の間を抜けて、天へと向かっている。

 老人は首を傾げながら、不思議な石に近づいた。

 突然、小屋の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。

 老人はびくっとして肩を震わせた。

「誰かおるのか」と老人は小屋の中に声を掛けた。

 返事はなかった。ただ、元気のいい赤ん坊の泣き声が聞こえるだけだった。

 老人は意を決して、恐る恐る小屋の戸に手を掛けた。

 老人が戸を開けようとした時、「どなたでしょうか」と中から女の声が聞こえてきた。

 老人はホッとした。マジムン(物の())ではなさそうじゃ。

「怪しい者ではない」と老人は言った。

志喜屋の大主(しちゃぬうふぬし)と呼ばれている年寄りじゃ」

 戸が開いて女が顔を出した。どう見ても、この小屋とは不釣り合いな上等な着物を着た女だった。

「大主様‥‥‥」

 狭い小屋の中には赤ん坊を抱いた娘がいた。どうやら、戸を開けたのは、その母親のようだった。

「そなたたちは、この小屋の住人なのか」と志喜屋の大主は聞いた。

 女は首を振った。

「大主様、どうか、お助けください」

 女はどうしたらいいのかわからないという顔をして、赤ん坊の方を振り返った。

 志喜屋の大主も赤ん坊を見た。窓から入る月明かり、いや、不思議な石の発する光のお蔭で赤ん坊の顔は、はっきりと見えた。赤ん坊は泣いていなかった。

 くりっとした目で志喜屋の大主を見つめて、右手を上げたかと思うと小さな指で天を指さした。

「なんと‥‥‥」

 志喜屋の大主は小屋の中に入ると、赤ん坊に近づいて、じっとその顔を見つめた。

 赤ん坊は嬉しそうに笑っている。

「うーむ。この子はただものではない」

 そう言って、志喜屋の大主は赤ん坊を抱いている娘を見た。

 娘の顔に見覚えがあった。

「そなたは美里之子(んざとぅぬしぃ)の娘さんではないのか」

 娘はうなづいた。

 志喜屋の大主は娘と母親から事の成り行きを聞いた。

 娘の名はミチ(満)といい、村一番と評判の美しい娘だった。父親は(うふ)グスクの按司(あじ)(領主)に仕える武将で、中部の美里(んざとぅ)からやって来たので美里之子と呼ばれている。武術の達人だった。

 赤ん坊の父親はサミガー(鮫皮)大主(うふぬし)の長男、サグルー(佐五郎)だという。

 サミガー大主は二十年ほど前に北部の伊是名島(いぢぃなじま)からやって来て、馬天浜(ばてぃんはま)鮫皮(さみがー)作りを始めた。鮫皮というのは日本刀の(つか)に巻かれる皮で、日本刀を作るにはなくてはならないものだが、ヤマトゥでは採る事ができなかった。鮫皮といっても鮫の皮ではなく、エイの皮で、琉球の近海で採る事ができた。

 伊平屋島(いひゃじま)で生まれたサミガー大主は、島に移り住んで鮫皮作りをしていたヤマトゥンチュ(日本人)から鮫皮作りを学んだ。技術を身に付けたサミガー大主は、隣り島の伊是名島に移って鮫皮作りを始めた。島の若い者たちを誘って鮫皮作りに励んだのに、ヤマトゥからの船は来なかった。

 鮫皮を作るためにエイを解体すると物凄い(にお)いが出て、島中が臭くなった。島の人たちも貴重な鉄が手に入るのなら仕方がないと我慢していたが、いつまで経ってもヤマトゥからの船はやって来ない。とうとう頭にきて、サミガー大主を追い出してしまった。

 サミガー大主は鮫皮作りに適した場所を捜しながら、各地を転々として、ようやく、佐敷の馬天浜に落ち着いた。

 馬天浜に移った翌年、ヤマトゥからの船がやって来た。サミガー大主は鮫皮と交換に、大量の鉄や陶器を手に入れて村人たちに喜ばれ、さらに、領主である(うふ)グスク按司(あじ)の美しい娘まで嫁に迎える事ができたのだった。

 あれから二十年が経った。

 大グスク按司の保護のもと鮫皮作りの規模は拡大して、エイを捕るために各地からウミンチュ(漁師)たちが大勢集まって来て、佐敷は発展して行った。

 十八歳になったサミガー大主の長男、サグルーは剣術の指導を受けるために美里之子の武術道場に通い始めた。それ以前も剣術の修行はしていたが、「自己流よりは、しかるべき師のもとで修行した方がいい」と父に言われて訪ねたのだった。そこでミチと出会い、お互いに()かれ合った。しかし、ミチの父親はサグルーと一緒になる事に猛反対した。

 大グスク按司の孫とはいえ、サグルーの嫁になれば苦労するに決まっている。鮫皮作りの親方の妻として大勢の荒くれ男たちの面倒を見なければならず、そんな辛い目には遭わせたくない。ミチはしかるべき武将のもとへ嫁にやると決めていた。

 ミチが妊娠して、その相手がサグルーだと知ると父親は怒り、絶対に許さんと言って、ミチを部屋の中に閉じ込めてしまった。ミチに会わせてもらえないサグルーは、ミチの妊娠も知らずに、もっと強くなってミチを迎えに来ると言って修行の旅に出た。半年前の事である。

 ミチのお腹はだんだんと大きくなっていった。臨月になると母親は心配して、娘をサミガー大主のもとへ連れて行こうと決心した。幸い、父親は敵が攻めて来るかもしれないと(いくさ)支度をして大グスクに詰めている。

 サグルーがまだ帰って来ないのに、サミガー大主のもとへ行くのは(はばか)られたが、赤ん坊のためだと母親に説得されて、ミチもうなづいて腰を上げた。

 馬天浜のサミガー大主の屋敷に行く前に、もしかしたら、サグルーが苗代(なーしる)にある修行小屋に帰っているかもしれないと淡い期待を(いだ)いて、この小屋へと向かった。やはり、サグルーは帰っていなかった。一休みしているうちに陣痛が始まって、赤ん坊が生まれたのだった。

「この小屋はサグルーの修行小屋だったのか」と志喜屋の大主は改めて小屋の中を見回した。壁の隅に棒や木剣が立てかけてあった。

「わたしも小屋を建てる時、手伝いました」とミチは明るい声で言った。

「そうじゃったのか」と志喜屋の大主はうなづいた。

「大主様、どうしたらよろしいのでしょうか」と母親が聞いた。

「うむ」と志喜屋の大主は笑っている赤ん坊を見ながら、「この子はただの子ではない」ともう一度言った。

「将来、きっと大きな事を成すじゃろう。サミガー大主のもとに行って大切に育てるのじゃ。わしも一緒について行ってあげよう」

 母親は安心したように、大きくうなづいた。

 小屋を出て、ガジュマルの木の下にある石を見た時、それは光ってはいなかった。どこにでもありそうな普通の石だった。

 志喜屋の大主が不思議そうな顔をして石を見ていると、「その石はサグルー様の神様なんです」とミチが言った。

「修行するための小屋を建てる場所を捜していた時、その石が光ったって言っていました」

「そなたもこの石が光るのを見たのか」と志喜屋の大主は聞いた。

 ミチは首を振った。

「石が光るなんて信じられないけど、あの人がそう言うんだから、きっと光ったんだと思います」

 志喜屋の大主はうなづいて、また、石を見つめた。

「わしは昨夜(ゆうべ)、神様のお告げを受けたんじゃよ。『馬天浜に行って夜になるまで待て』とな。わしはお告げに従って馬天浜に行った。ヤマトゥからの船が来て、浜は大賑わいじゃったが、これといった事は何も起こらなかった。わしは諦めて帰る事にした。そして、その石の光を見たんじゃ。その光に導かれて、ここに来たというわけじゃ」

「大主様も見たのですか」とミチは驚いて、不思議な石を見つめた。

「大切になさるがいい。サグルーが言ったように、この石は神様の憑代(よりしろ)に違いない。その子の一生を見守って行く事となろう」

 志喜屋の大主は母と娘を促して、小屋から離れた。

「ところで、その子は男の子なのか」

 ミチは力強くうなづいた。

 志喜屋の大主も満足そうにうなづいて、夜空を見上げた。

 気のせいか、いつもより大きな満月が輝いていた。




 その頃、赤ん坊の父親のサグルーは久高島(くだかじま)にいた。

 強くなって帰って来ると言ったものの、あてがあるわけではなかった。旅に出て玉グスク(玉城)の城下に来た時、『シラタル(四郎太郎)親方(うやかた)』の噂を聞いた。

 シラタル親方は先代の浦添按司(うらしいあじ)(西威)に仕えた武将で、数々の(いくさ)で活躍して名をあげた。『シラタルの(くん)』と呼ばれる棒術を編み出した武術の達人だった。美里之子(んざとぅぬしぃ)からもシラタル親方の凄さは何度も聞いていた。二十数年前、浦添では大戦(うふいくさ)が起こって按司が入れ替わった。その時の戦で、シラタル親方も戦死したのだろうと誰もが思っていた。そのシラタル親方が久高島にいるというのだ。サグルーは迷いもせずに久高島に渡った。

 久高島は、佐敷の東にある知念岬(ちにんみさき)の東の海上六キロ程にあって、『アマミキヨ』という女神が天から降りて来て、国造りを始めたという伝説のある島だった。

 その島に確かに、シラタル親方はいた。しかし、サグルーが思い描いていた姿とはまるで違っていた。百戦錬磨の武将の面影はまったくなく、野良着を来た年寄りの農夫にしか見えなかった。それでも強いには違いないので、サグルーは武術の指導をお願いした。何度も断られても諦めず、浜辺に小屋掛けをして、シラタル親方の家に通い続けた。

 一月が経って、シラタル親方も根負けして、指導してくれるようになった。それは厳しい修行だったが、ミチをお嫁にもらうためだとサグルーは歯を食いしばって頑張った。

 シラタル親方には三人の子供がいた。一番上は長女のフカマヌル(外間ノロ)と呼ばれる美人で、次が長男のマニウシ(真仁牛)、次が次女のウミタル(思樽)だった。長女のフカマヌルはサグルーより三つ年上で、口うるさくて気の強い女だが、姉というものを知らないサグルーにとって、本当の姉のような気持ちで気兼ねなく接する事ができた。次女のウミタルは二年前に島を出て、侍女(じじょ)として玉グスク按司に仕えているという。シラタル親方は七十に近い年齢で、子供たちは二十代、孫と言ってもいい歳の差があった。奥さんはまだ三十代に見える美しい人だった。

 マニウシはサグルーより一つ年上で、共に修行に励んだ。今までシラタル親方は武術の事を子供たちに隠していたので、子供たちは父親の強さを知らなかった。突然のサグルーの出現によって、父親の正体がわかり、皆、驚いていた。

 島に来て半年近くが経った頃、「わしのすべてをお前に授けた。あとはお前が自分で工夫する事じゃ」とシラタル親方は突然、言い出した。

「師匠、まだ極意(ごくい)を授かっていません」とサグルーは強い口調で言った。

「極意か」と笑って、シラタル親方は右手を上げると(てのひら)(くう)を切るように真っ直ぐ下ろした。

「これが極意じゃよ」

 サグルーにはわからなかった。シラタル親方の真似をして掌で空を切ってみたが、何でこれが極意なのか、さっぱりわからなかった。

「わしはな」とシラタル親方は海を見ながら言った。

「二十年前の(いくさ)の時、死ぬつもりじゃった。わしが武術を教えた者たちは皆、戦死してしまった。わしが教えた武術は何の役にも立たなかったんじゃ。数人同士の戦いなら勝つ事はできる。だが、大戦(うふいくさ)になったら個人の力など大して役には立たんのじゃ。武術の達人などと言われても、大勢の教え子を死なせただけじゃった。わしは武術を捨てた。だがのう、武術を捨てて、ここで暮らしているうちに、少しづつわかって来た事があるんじゃ。あの後も、あちこちで戦は起こっている。十年前に北部の今帰仁(なきじん)で大戦が起こって、ついこの間も南部の八重瀬(えーじ)で起こった。戦が起これば大勢の人が死ぬ。関係のない(たみ)たちも家を焼かれたり殺されたりする。誰かがこの乱世を止めなくてはならん。戦をやめさせるのに、武術というものが役に立つんじゃないかと思い始めたんじゃ。いいか、そんな武術を編み出してくれ」

 シラタル親方はそう言って、夜空を見上げた。

 サグルーも空を見上げた。降るような星の中、神秘的な満月が輝いていた。

 家に帰るとフカマヌルがいつになく強い口調で、「早くおうちに帰りなさい」と言った。

 すべてを授けたとシラタル親方に言われても、まだまだ修行を積まなければ帰れないとサグルーは思っていた。師匠にしろ、フカマヌルにしろ、どうして急に追い出すような事を言うのか、サグルーにはわけがわからなかった。

「もうすぐ、あなたの子が生まれるのよ。早く帰って祝福しなさい」

「ええっ!」とサグルーは驚いて、フカマヌルの顔を見つめた。

「本当よ」

 シラタル親方を見ると、優しい笑顔を浮かべてうなづいた。

 次の日、サグルーは久高島を後にして、故郷へと向かった。

「今度来る時には、わたしの跡継ぎができているわ」とフカマヌルは謎めいた言葉でサグルーを見送った。




 志喜屋の大主と名乗った謎の老人は、有名なトキだった。トキというのは神人(かみんちゅ)で、女性はユタといい、現在も活躍しているが、男のトキはすでに消滅してしまっている。

 赤ん坊とミチはサミガー大主に歓迎されて、馬を飛ばして帰って来たサグルーも我が子と対面した。

 サグルーとミチの子は『サハチルー(佐八郎)』と名付けられた。佐敷の佐と祖父サミガー大主の童名(わらびなー)、イハチルー(伊八郎)のハチルーを合わせた名前だった。

 その頃、琉球にはまだ(こよみ)はなかったが、西暦でいうと一三七二年、明国(みんこく)(中国)では洪武(こうぶ)五年、日本では南北朝(なんぼくちょう)に分かれて争いを続け、南朝では建徳(けんとく)三年、北朝では応安(おうあん)五年と号していた。その年の正月十五日、琉球の英雄、『尚巴志(しょうはし)』が誕生したのだった。




  佐敷苗代に

  すで物まもの

  真玉(まだま)のとむやがるみしや子

 又もたい苗代に

  と『おもろさうし』にも歌われている。





尚巴志誕生の地



久高島




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