鷺白
「まあ、湯安さんの若旦那じゃありませんか、いらっしゃいませ」と女は丁寧に頭を下げた。 「おや、 「まあ、十返舎先生でございましたか。どうぞ、ごゆっくりして行って下さいませ」 女は再び、丁寧に頭を下げ、 「それじゃア、その通りにいたします」と鷺白に言うと去って行った。 「頼むぞ」と鷺白は女の後ろ姿に言った。 女は振り返って、軽く笑った。 一九も月麿もその女の美しさにしばし、見とれていた。 「うちの嫁じゃ」と鷺白は笑った。 「先生方は江戸の 「はい、噂だけは聞いておりますが」と一九は言った。 鷺白はうなづいた。 「その一茶先生が今月、草津に来られるはずだったんじゃがな、どうやら、来月の末になるらしい。その事を今、知らせに来たんじゃよ。まあ、どうぞ、お上がり下さい。狭い隠居所で散らかっておりますが」 鷺白の書斎らしいその部屋には書物が積み重ねられ、仕事をしていたらしく、 「句集を出そうと思いまして、ちょっと整理をしていたとこなんですよ。まあ、どうぞ、楽にして下さい」 「先生、いよいよ、出しますか」と新三郎が文机を覗きながら言った。 「お前ももっとみしみてやれば、句集に入れてやるが、今の腕じゃアまだまだだぞ」 「はい、すみません。色々と忙しくって」 「何を言っておる。毎晩、桐屋に入り浸ってるようじゃな。遊びも結構じゃが、やるべき事はやらんとな」 「はい、わかってますよ」 鷺白のおかみさんらしき女がお茶をもって来た。鷺白よりも随分と年が若いようだった。 「先生にちょっと見てもらいたい物がありまして、お邪魔したんですけど」 新三郎がそう言って、夢吉の手紙の事を説明した。 「ほう。さすが、深川の芸者ですな。やる事が 「これは薬師さんにある龍山公の歌のようじゃが、少し、違うようじゃな」 「そうなんです。 「うーむ。この中に謎が隠されているというのですな」 「はい。どうも、歌の事は難しくって、さっぱりわかりません」 「昔の 「さあ、昔の偉いお坊さんだとは思いますが、詳しい事は」と一九は首を振る。 当然、月麿もわからないと首を振る。 「うむ。一応、 鷺白は龍山の事について、さらに詳しい話をしてくれた。 龍山は父親から『 話の途中、新三郎はちょっと用があると言って座を外した。新三郎の後ろ姿を見送りながら、一九はお鈴に会いに行くのかもしれないと思った。 「わしも若い頃、龍山公の歌に何か重大な謎が隠されているのかもしれないと思いまして、色々と調べた事がございました。しかし、何も見つけられませんでしたよ」と鷺白は陽気に笑った。 夢吉の手紙を眺めながら、鷺白は何度も首をひねりながら考えてくれた。そして、二番目、三番目、五番目の歌の下の句が、
から取り、三番目の下の句は
から取り、五番目の下の句も小野小町の歌、
から取ったものだった。 「どうやら、夢吉ねえさんとやらは古今集に詳しいようですな」 鷺白が古今集から拾い出した三つの句を眺めながら、 「謎はその中にあるんでしょうか」と月麿が聞いた。 「うむ。あるかもしれんし、ないかもしれんのう」 「それにしても、小野小町の歌が隠されていたとは驚きだ」と一九が 「小町の歌を入れるなんざ、夢吉らしいじゃアねえですか」と月麿は小町の歌を繰り返し読んでいた。 「ところで、この歌はどういう意味なんです」 「人にあわんの方は、好きな人に会えない夜は、好きな人の事を思って、心は走り火のように燃えているというような意味じゃな」 「好きな人に会えねえ夜は心が燃えてるんですか。成程なア‥‥‥もう一つは?」 「わびぬればの方は、浮草のように頼りなく、寂しく暮らしているので、誘う人があれば、どこにでもついて行こうと思うという意味じゃろう」 「その歌は、今の夢吉の心境かもしれんぞ」と一九が言うと月麿はうなづきながら、 「誘う水ってえのは俺の事だろうか」とニヤニヤしながら一九を見た。 「おめでてえ奴だよ、おめえは。もし、そうなら、そろそろ、夢吉も出て来るだろう」 「貫之の歌はだな」と鷺白は説明を続ける。 「小倉山っていうのは京都にある紅葉の名所なんじゃが、その山の峰に立って鹿が鳴いている。その鹿が何年も鳴き続けているのを知っている者はいないという意味じゃ。この歌も一種の遊びじゃ。句の頭をつなげると『おみなへし』となる」 「へえ、紀貫之ってえ人もそんな遊びをやってたんですか」と一九は改めて貫之の歌を見る。 「結構、みんな、遊んでいるようじゃな」 「鹿の歌は関係ねえようだ。どうも、小野小町の歌二つが謎の答えに違えねえ」 月麿は一人で納得していた。 「で、謎の答えは何なんだ」 「そいつは、相模屋と別れて、寂しい独り身になったから、俺に迎えに来てくれって事よ。胸を焦がして待ってるってえ意味じゃねえか」 「まったく、おめえはほんとに、めでてえ野郎だぜ。てめえの都合のいいように勝手に謎解きしてやがる」 「それじゃア、先生はどう思うんですかい」 「そうだな。どうして、下の句だけを使ったかを考えなきゃアならねえな」 「そいつは、上の句を隠して謎にするためだろう」 「それなら、夢吉はどこにいるんだ」 「そいつはわからねえ。謎を解けば夢吉の居場所がわかるに違えねえと思ってたんだが、どうも違うらしい。こいつは居場所じゃなくて、夢吉の気持ちを俺に伝えたかったに違えねえ。夢吉の気持ちがわかったからには、じっとしちゃアいられねえ。俺は夢吉に会って来るぜ」 「会うって一体、おめえ、どこに行く気だ」 「どこって、俺が謎を解いた事を知りゃア、夢吉の方から出て来らアな。とりあえずは中善の夢吉の部屋で待つとするか」 月麿は夢吉の手紙と鷺白が書いた小町の歌を大事そうに懐にしまうと嬉しそうな顔をして帰って行った。 「ちと、早とちりですな」と鷺白は笑った。 「あの野郎、謎の手紙まで持って行きやがった。もう、知らねえぞ」 月麿がいなくなるとお夏も、そろそろ桐屋に戻らなくっちゃと帰って行った。結局、一九一人だけが残された。 「あの謎ですが、古今集から三つの下の句を入れるという事は、龍山公の下の句が三つ消えているという事になりますね。その消えている下の句に謎が隠されているのかもしれません。それと、上の句と下の句がバラバラになっています。どうして、わざわざ、そんな事をしたのか。そこにも謎を解く鍵があるような気がします」 「成程、多分、そうでしょう。しかし、奴が納得して帰ったんだから、放って置きましょう。どうも、お手数をおかけしました」 「いやいや、先生方に来ていただいたお陰で、いい考えがひらめきましたよ。実は近いうちに句集を出そうと思ってるんですが、その句集に龍山公の歌を紹介しようと今、決めましたよ」 「そうですか。それはいい考えです。是非、素晴らしい句集を出して下さい。楽しみにしております」 その後、鷺白は草津に来た歌人の藤之坊 「そうか、また宴会が始まるのか」 「いえ、宴会って程の事じゃアありませんが、宿屋に帰っても飯しかねえですからね。どうせ、酒や料理を桐屋から運ばせる事になるでしょう。それなら、はなっから桐屋で済ました方がいいと」 「成程な。どうです、先生もいかがですか」と一九は鷺白も誘った。 「いやいや、昨夜の今日ですからな。今夜は遠慮しておきましょう」 鷺白はそう言った後、小声で、 「山の神がうるさいんですよ」と両手の人差し指を頭の上に突き出して笑った。 一九は鷺白と別れ、都八と泉水通りへの石段を降りた。 「それにしても、俺がここにいる事がよくわかったな」 「なアに、お夏から聞きましたよ」 「ああ、そうか」 「お夏の奴、月麿にほの字のようですよ。どうして、あんな野郎が持てるのか、俺にはさっぱりわからねえ」 「うむ、いい加減な奴だが、 「それじゃア、先生、先に行ってて下せえ」 「なんだ、おめえはどこに行く」 「へい、ちょっと、おかよの奴を」 「なに、おかよを迎えに行くのか」 「あいつ、昨夜は宴に出られなかったから、今晩は誘ってやろうと」 「おめえも優しいこったな」 へへへと笑いながら、都八は 「どいつもこいつも浮かれていやがる」 そう言いながら、一九も昨夜の麻吉を思い出していた。
|
鷺白の句碑 |
1.草津温泉の年表 2.十返舎一九の年表 3.文化五年、六年の出版状況 4.文化五年、草津温泉の図 5.文化五年の草津温泉の様子 6.湯本安兵衛の湯宿 7.喜多川歌麿の略歴 8.喜多川月麿の略歴 9.山東京伝の略歴 10.艶本一覧 11.「草津温泉膝栗毛 冗談しっこなし」のあらすじ、主要登場人物