五月十二日
四月九日の浅間焼けから一月が過ぎた。 浅間山はすっかり落ち着いて、いつものように三筋の煙を上げている。 五月に入ると、いよいよ芝居の稽古も本格的になり、立ち稽古が始まった。去年、『義経千本桜』の序幕と二幕目を演じ、今年は三幕目と四幕目。三幕目の『 勘治の役、下女のおとくは三幕目に登場し、惣八の 今日は芝居の稽古も休み。市太と勘治、おなつ、おなべ、おゆうはおゆくの茶屋『桔梗屋』に集まって、夕方から酒を飲んでいる。惣八は一昨日、家の金を持ち出したのがばれて、家から出して貰えない。勿論、その金は市太らと追分宿で遊んでしまった。 おなつたちが雪之助から 雪之助は娘たちに教えるだけでなく、毎晩、どこかに呼ばれて義太夫を披露している。夏の土用が来るまで草津もそれ程忙しくはないので、それまで、ここで稼ごうと腰を落ち着けてしまった。 「おい、勘治、雪之助に 突然、市太に聞かれ、勘治はむせて酒を吹き出した。 「もう、汚いわねえ」とおゆうが勘治が肩から下げている 「おい、そいつを使うな。 勘治はおゆうから手拭を引ったくる。 「なに言ってるのよ。自分が汚したくせに」 「まったく、もう」と勘治は手拭の汚れを気にしている。 「おい、おめえ、むせるとこをみると、てめえで夜這えをかけやがったな」市太が笑いながら聞く。 「とんでもねえ。俺アそんな事アしねえ」と勘治は首を振るが、 「あんた、お師匠とやったのね」とおゆうが鬼のような顔して 「なに言ってんだよ、違うって。まあ、やろうたア思ったがな、見事に 「この馬鹿。いい女を見りゃア、すぐやりたがるんだから」 おゆうは勘治の手拭をつかむと土間に思い切り投げ捨てる。 「おい、何するんだよ。おめえ、許さねえぞ」 勘治がおゆうを殴ろうとするのをみんなで止めに入る。 「それで、おめえ、どうして失敗したんでえ」 「それが、そおっと布団ん中に 「ほう、簪を構えたのか」と市太は驚く。「まあ、女一人で旅するぐれえだからな。身を守るすべは知ってるに違えねえ」 「もしかしたら、江戸で人を殺して逃げて来たんかもしれねえ」 「お師匠はそんな人じゃないよ」とおなつは否定する。 「そうよ、そうよ。おまえが間抜けなんだ」と娘たちは口を揃える。 「あたしもその事、聞いたのよ」と煮物を持って来たおゆくが言った。 「女一人で旅するなんて危険じゃないのって聞いたのよ。そしたら、 「何でえ、取って置きの啖呵ってえのは」 「そこまでは教えてくれなかったけど、あの人、数々の 「へえ、すごいのねえ。普段のお師匠さんから、そんな事、ちっとも考えられないわ」 「ああ、疲れた」と言いながら噂の雪之助が顔を出した。 おなつが言った通り、その優しい顔付きからは修羅場をくぐって来たような感じはまったくない。勘治が言った事さえ嘘のように思えた。 「お師匠、お師匠」とおなつが手招きする。 「お師匠、今晩はどちらに」とおなべが席を空ける。 「まあ、皆さん、お揃いで。お邪魔してもよろしいかしら」 雪之助はおなつとおなべの間に納まり、市太を見てニッコリ笑う。 「橘屋さんの若旦那ですね。今まで、お宅にいたんですよ」 「なに、俺んちにか」 「ええ、おさやちゃんに誘われて。 「うちの爺ちゃんはちっと変わってるからな」 「ええ、確かに変わってるわね。初めて、御隠居さんの離れにお邪魔した時なんか、あたしの顔をじっと見つめて、お 市太が大笑いした。 「爺ちゃんの妾か。こいつアいいや」 「でも、最初にそんな事言われたから、何だか、あの御隠居さんには気を許せるの。やたらと親切 勘治はいたたまれずにうなだれる。 「勘治さんの事を言ったんじゃないよ。あたしを呼びながら、あたしの芸なんて聞きもしないで、いやらしい目付きで、ジロジロ見ている旦那衆が多いって事さ」 「それは言えるわね」とおゆくもうなづく。「女が一人でいると余計なお節介を焼く奴がいるのよ」 「それにしても、橘屋さんの御隠居さんは面白い人よ。色んな事を知ってるし、 「ああ。俺がこうやって遊んでられるのも爺ちゃんのお陰さ。若え時の遊びは決して無駄にはならねえってえのが爺ちゃんの持論だからな。男ってえのは 「市太んちは問屋だから、そんな事が言えるのよ。遊んでても食べて行けるもの」とおゆうが急に真面目な顔で言う。「あたしんちなんか、一家四人で一生懸命、働いたって貧しいもの」 「そういうおめえは遊んでるじゃねえか」 「まあね。でも、この間の大霜は痛かったみたいだよ。もしかしたら、あたしもそろそろ働かなきゃアならなくなるかもしれない」 「働くっておめえ、身を売るんじゃあるめえな」と勘治が心配する。 「そこまではしないさ。でも、お師匠じゃないけど、草津で働くかもしれない」 「草津だと?」 「うん。親戚の伯母さんが今、草津で飯炊きをしてるんだ。その伯母さんに仕事口を聞いてみるかって事になってね」 「なんだ、おめえ、草津に行っちまうのかよ。どうにかならねえのか」 「うちは男手が親父しかいないからね。畑がダメだと親父が馬方やっただけじゃ追いつかないのさ」 「畜生め。何も草津に行かなくったっていいだんべ。なあ、姉さん、ここで働けねえのか」 勘治はおゆくを見るが、おゆくは首を振る。 「見りゃわかるでしょ。こんな狭い店、人なんて雇えないわよ」 「どこかねえのかよ。市太、何とかしてくれ。おゆうが草津に行っちまったら、俺アどうすりゃいいんでえ」 「何とかしろったってなア」 みんな暗い顔付きになって考え込む。畑が全滅して生活が苦しくなったのは、おゆうの家だけではなかった。娘たちが義太夫に熱中して賑やかで平和な村に見えるが、狭い畑しか持たず細々と暮らしている家々は深刻な状態に 「いっその事、おめえがおゆうを嫁に貰っちまえばいいんじゃねえのか」 「そうか、そうすりゃアいいんだ。何も難しく考える事もねえや」と勘治は手を打つ。 「それもダメなの」とおゆうの声は暗い。 「親に話したら、家柄が違うからダメだって」 「何だと、家柄だと。何でえそりゃア」 「くそっ、また、家柄か。畜生め」市太は自棄気味に酒をあおる。 「おい、市太、家柄ってえのは何の事でえ」 市太はおゆうの姉、おすわとの間にあった事を勘治に聞かせる。 「へえ、この村も色々と大変なんだねえ」と雪之助が溜め息を付く。 暗い顔付きでしんみりしている所に 「何だ、みんないたのか」と安治が笑って手を上げる。 「おゆくさん、とうとうやったぞ。 「えっ、ほんとに」と錦渓を見るおゆくも嬉しそう。 「ほんとだとも。わしの目に狂いはなかったんじゃ」 「よかったわねえ。ほんと、よかったわ」おゆくは自分の事のように喜んでいる。 「一刻も早く、小松屋の旦那に知らせなけりゃならん。わしは明日、一旦、江戸に帰る事にした。しばしの別れを告げに来たんじゃよ」 「先生、江戸に帰るんですか」と勘治がすかさず聞く。 「ああ。旦那に現物を見せて、今後の事を相談せにゃアならんからな」 「江戸か。いいなア」 勘治が江戸の話を聞こうと思ったら、「ねえ、詳しく聞かせてよ」とおゆくが錦渓を隅の方に引っ張って行ってしまった。 「おめえも明礬を捜してたのか」と市太が安治に聞く。 「先生から本の書き方を教わろうと思ってな。いつか、芝居の 「おう、面白え奴を頼むぜ」 「本の書き方はまだだけど、 「源内先生と一緒に長崎にも行ったらしいな。この間、俺も異国の言葉を教わったよ。もう忘れちまったけどな」 「そうなんだ、時々、 「なあ、市太、俺たちも江戸に行かねえか」と勘治が思い詰めたような顔して言い出した。 「急におめえ、なに言ってんだ」 「だってよう、おゆうと 「あんた、なに言ってんのよ。あたしとあんたは一緒になれないのよ」 「うるせえ。家柄が何だってえんでえ。誰が何と言おうとな、俺アおめえと一緒になるって決めたんだ。親が 「勘治‥‥‥」おゆうは嬉しくて涙を流す。 「あんた、なかなかいい男じゃないか。まあ、一杯おやりな」と雪之助が 「すまねえ」と勘治は盃を受けた。 「あたしたちも味方だからね。諦めるんじゃないよ」とおなつとおなべが力づける。 錦渓とおゆくは隅の方でいい感じにやっている。あんな風来坊なんかダメよと言いながらも結構、いい雰囲気だ。 「なあ、だからよう、市太、先生と一緒に江戸に行こうぜ」 「ああ、そりゃア行きてえけどな」 「俺も行きてえけど、俺ア無理だ」と安治は簡単に諦める。 「なあ、本場の 「先立つ 「そこなんだ。当然、俺も銭なんかねえ。そこで俺はアレをおめえの爺さんに質に出す」 「なに、アレをか」 「ねえ、何よ、アレって」とおなつが二人の顔を見比べる。 「湯飲みだよ」と市太が答える。「五、六年前、客が宿代の代わりに置いてったんだそうだ。 「くだらなかアねえよ。 「十二 「そのうち値が上がるさ」 「まあ、絵の事はどうでもいい。そん時、爺ちゃんが 「うめえ 「十両‥‥‥」おなつがつぶやいて、皆、驚いた顔して勘治を見ている。 「すごいじゃない。ねえ、誰だったの、そんな高価な湯飲みを置いてったのは」 「五、六年も前の事だ。まったく、わからねえ。そんな高え物だったとは親にも内緒だけどな。爺さんはそん時、もし、手放す気があるなら、わしが買い取ろうとも言ったんだ」 「ああ、確かに言ったぜ」と市太もうなづく。 「手放す気はねえけど、とりあえずは質に出して 「よし、それなら何とかなりそうだ。おっと、先生、明日のいつ、江戸に帰るんです」 市太が錦渓に声を掛けると、錦渓はおゆくと何やら親密に話し込んでいる。 「何か言ったか」と錦渓が振り向く。 「先生、明日のいつ旅立つんです」 「朝一番に立つよ」 「俺たちも連れてって下せえ」 「そいつは構わねえが‥‥‥ああ、いいだろう。一緒に行こう」 「そうと決まりゃア、忙しい。勘治、さっそく、路銀作りと行こうぜ」 市太と勘治は浮き浮きしながら店を出て行った。 「まったく、いい気なもんね」おなつたちは呆れ顔で二人を見送る。 「俺も行きてえなア」と安治が酒を飲む。 「一緒に行けばいいじゃない。お金はあるらしいしね」 「そうも行かねえよ。畑は 「まったく、どういうんだろ。みんな、うちのために働いてるってえのに、のんきに江戸で芝居を見て来るってさ。畜生、あたしたちだって江戸見物したいわよ、ねえ」 「それよりさ、勘治の奴、そんな湯飲みを持ってんなら、おゆうを助けてやればいいのに、遊びに使っちゃうなんて、ああ、情けない」 娘たちは二人の悪口を言いながら酒を飲み続け、離れた所では錦渓先生とおゆくが別れの盃を酌み交わしていた。
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鎌原村大変日記の創作ノート
1主要登場人物 2追分宿の図 3鎌原村の図 4江戸の図 5吉原の図 6年表 7浅間山噴火史 8浅間山噴火史料集 9群馬県史 10軽井沢三宿と食売女 11田沼意次の時代 12平賀源内 13歌舞伎役者 14狂言作者と脚本 15鎌原村の出来事 16鎌原村の家族構成