4 親分、俺を子分にしてくだせえ
将軍様の上覧相撲に参加して勝ち星を上げた事もある有名な力士で、表向きは 忠次は玉村宿の佐重郎の紹介状を持って、藤久保にいる栄五郎を訪ねた。 「ほとぼりが冷めるまで上州から離れていた方がいい。こっちの事は任せときな」と佐重郎は忠次を栄五郎のもとに送ったのだった。 忠次も栄五郎の噂は色々と聞いていて、一度、会ってみたいと思っていた。しかし、博奕打ちになる気はなく、しばらく、隠れてから国定村に戻って、以前のように剣術の修行に励むつもりでいた。 栄五郎は貫録のある大柄の男で、佐重郎からの紹介状を読むと、 「おめえさん、人を殺して逃げて来たのか?」とドスのきいた声で聞いた。 忠次はうなづき、 「仕方なかったんです」と答えた。 栄五郎は強い視線で忠次を眺め、 「 忠次は首を振った。 「玉村の親分の手紙によると、おめえんちは国定村で名主をやった事もある家柄じゃねえか。何でまた無宿者なんか殺したんだ?」 「そいつは隣村の名主さんに難癖をつけて来たんです。何とかやめさせようとしたんですけど」 「斬っちまったのか?」 「殺すつもりはなかったけど、気が付いたら、相手は死んでたんです」 栄五郎は軽くうなづくと手紙をたたんだ。 「無宿者は 「はい。剣術の修行を積んで道場を開きます」 「ほう。おめえ、剣術をやってんのか?」 「はい。本間道場に通ってました」 「成程な。本間道場なら 「はい‥‥‥」 忠次は栄五郎の連れという事で重五郎の木賃宿に滞在しながら、木賃宿をやっている重五郎の妻、お お園はほっそりとした美人で、みんなから 「おまえさんも栄五郎親分の 姉さんかぶりのお園がお勝手から出て来て聞いた。 「いえ、違います」と忠次は裏庭で 「おや、違うのかい。上州から若い 「ほとぼりが冷めるまで隠れてるだけです」 「人を殺したんだってねえ。なかなか、度胸があるんだねえ」 「いえ‥‥‥」 忠次は手を止めて、顔の汗を拭きながら、お園を見た。 お園は笑みをたたえながら、忠次を見ていた。 「栄五郎親分は男ん中の男だよ。親分のそばにいて、盃を貰わないって手はないよ」 「そんなに凄え人なんですか?」 「凄い人だとも」とお園は力強くうなづいた。 「顔が広くってね、あちこちの大親分さんを知ってるんだよ。佐渡島に送られて、島抜けして来たなんて大したお人だよ。栄五郎親分から盃を貰って上州に帰ってごらんな。おまえさんは人を殺した事で男を上げたんだ。さらに、親分から盃を貰えば、立派に一家を張る事ができるんだよ」 「えっ、俺が一家を張るんですか?」 「そうさ。一度、人を殺しちまったら、もう堅気にゃ戻れないよ。博奕渡世で生きて行くしかないんだよ。そうなりゃ一生、人の子分でいるよりゃア、一家を張って親分になった方がいいだろうさ」 「はい‥‥‥」 「うちの人だって川越のお殿様のお気に入りの力士だったんだけどね、力士なんて若いうちだけだよ。強い時はちやほやされるけど、落ち目になったら惨めなもんさ。一度、ちやほやされた者が堅気になんか戻れやしないよ。大抵の者が博奕打ちになるんだけどね、うまく行く奴なんて少ないんだよ。うちの人は栄五郎親分に 「そうなんですか‥‥‥あのう、一度、人を殺したら堅気に戻れないって本当ですか?」 「なに、おまえさん、堅気に戻るつもりなのかい?」 忠次は自信なさそうにうなづいた。 「甘いね。世間の目はそんなに甘かアないよ。おまえさんがどんなに真面目に生きても、人殺しっていう 確かにその通りだと忠次は思った。お園の言う通り、今頃、国定村と 栄五郎はここでは勝五郎と名乗り、重五郎の木賃宿の近くの家で、お類という女と一緒に暮らしていた。重五郎の興行する相撲を見に行ったり、時々、賭場に挨拶に顔を出す程度で、後は若い者相手に相撲の 忠次も一度、剣術の稽古をして貰ったが、とてもかなわない程、栄五郎は強かった。忠次が習って来た道場の剣術と違って、栄五郎の剣術はより実践的だった。栄五郎のそばにいて、忠次はだんだんと栄五郎の 藤久保に来て一ケ月が過ぎた。 お園から博奕打ちの事を色々と聞き、また、一緒に雑用をやっている栄五郎の 「まだ、おめえには知らせてなかったが、玉村の親分より手紙が来た。田部井村の名主さんと本間道場の先生が久宮一家と話を付けたそうだ。玉村の親分は八州様の御用聞きをやってる島村の親分や木崎の親分に話を付けてくれた。八州様の手前もあるから、すぐに戻る事はできねえが、年が明けて夏頃になったら戻れるだんべえとの事だ」 「来年の夏ですか‥‥‥」 忠次は少し不満そうな顔をした。 「おめえはよく分かってねえようだな。人様を殺すってえ事は 忠次の 栄五郎には断られたが、忠次は諦めなかった。重五郎に子分にしてくれと頼んだ。 「おめえは兄貴の客人だ。俺の一存で決めるわけにはいかねえ。兄貴が許してくれたんかい?」 「いいえ。堅気に戻れと‥‥‥」 「そうだんべえ。おめえの事は俺も聞いてる。若えわりには度胸もあるし腕も立つ。子分衆に加えてえとこだが、兄貴の手前、そうもいかねえんだ。兄貴から許しを貰ってから来るんだな」 「‥‥‥」 「おめえはな、兄貴の若え頃によく似てるぜ。兄貴のうちもおめえと同じように名主をやった事のある家柄だ。十五ん時、三下奴を殺して、初めての国越えをしたんだ。そん時ゃア一年 重五郎に断られても忠次は諦めなかった。重五郎の三下奴たちと一緒に勝手に修行を始めた。三下奴たちは忠次が三下修行をするのを見て驚いた。人を殺して上州から逃げて来たという噂を聞いて、栄五郎の実の兄で大前田一家の親分、要吉の身内だと勝手に勘違いしていた。忠次が本当の事を言っても、栄五郎に可愛がられているのだから、ただ者ではないと 「おめえの事を俺が預かる事になったぜ」と言われた。 「俺を子分にしてくれるんですか?」 忠次は目を輝かせた。 「子分じゃねえ、三下奴だ。子分になる 「はい、お願いします」 「よし、そうと決まったからにゃア、兄貴にちゃんと挨拶して木賃宿を払って来い」 忠次の三下修行が始まった。 重五郎の家の裏にある狭い部屋に押し込まれ、五人の三下たちと 三下奴は博奕打ちの世界では人間として扱われなかった。飯だけは食わせて貰えるが、 重五郎の子分で川越の万吉というのがいた。重五郎の妻、お園の弟であるため、子分の中でもやたら威張って三下をいじめていた。 「おい、三下、人を殺したからってなア、いい気になってんじゃねえぜ。一人 万吉は忠次を目の 三下同士でも上下関係があり、大井村の権太という三下が忠次のすぐ上にいた。権太は忠次より一つ年下の十六歳で、三下になって三ケ月だという。権太から色々な事を教わり、博奕打ちのしきたりとか、賭場を開く時の下準備とかを忠次は身を持って覚えて行った。 年が明けて、文政十年になった。 あちこちから旦那衆や親分衆が新年の挨拶に訪れ、重五郎の家は賑やかだった。その中に高萩村の万次郎という、やたら背の高い男がいた。 万次郎は博奕が好きで、重五郎の賭場に出入りし、勝負の 万次郎を木賃宿に案内した後、忠次はお園から呼ばれた。万次郎が呼んでいるという。 「おまえさん、何か お園が心配顔で忠次を見た。 「怒ってるんですか?」 「そうは見えないけどね。ああ見えても、怒らせると手が付けられないから気を付けるんだよ」 忠次が恐る恐る万次郎の部屋に行くと、万次郎はやけに長い煙管をくわえながら、機嫌よく忠次を迎えた。 「まあ、 忠次は何と答えていいか分からず、部屋の片隅にかしこまっていた。 「俺が見たとこ、おめえは人様の子分で我慢できるような玉じゃねえな」 確かに万次郎の言う通りだった。重五郎の下で三下修行をしているのは栄五郎の弟分である重五郎の盃を貰い、故郷に帰った時、 「どうでえ、俺んとこに来ねえか? 客分として待遇するぜ」 忠次は自分の耳を疑った。 三下から急に客分として迎えられるなんて信じられない事だった。からかっているのかと思ったが、万次郎も子分衆も真面目な顔付きで忠次を見ていた。 「そいつはありがてえ事ですが、 「実はな、おめえの腕を見込んで、頼みてえ事があるんだ。いや、おめえに誰かを 「俺みてえな若え者でよけりゃア、喜んで引き受けますが」 「なあに、俺んとこの子分はみんな若え。 忠次は藤久保村から高萩村に移った。 万次郎の家は広い敷地を持ち、大きな 重五郎の所にいた時とは違って、万次郎の所には偉そうな顔をした子分もいないし、皆、和気あいあいとしていて楽しかった。栄五郎に簡単にあしらわれてから、剣術の腕に自信をなくしていたが、万次郎の子分たちには充分に通用する事が分かって嬉しかった。万次郎も思っていたよりも腕が立つと喜んでくれた。 忠次は万次郎と四分六の兄弟分の盃を交わし、弟分になった。 「これで、俺たちア 「すまねえ、兄貴」 「なあに、おめえの度胸を認めたのよ。叔父御が目を掛けてるくれえだ、おめえは立派な親分になるぜ。上州に一家を張ったら、そん時ゃア遊び行くからよ」 「はい、是非、来て下さい。あの、叔父御って誰ですか?」 「栄五郎の親分さんよ。重五郎親分は俺の兄貴分だ。栄五郎の親分さんは兄貴の兄貴分なんだが、とても、兄貴とか兄さんとは呼べねえ。それで、叔父御って呼んでるのよ」 「叔父御ですか‥‥‥栄五郎の親分さんは俺の事を何か言ってました?」 「叔父御は何も言わねえ。だがな、おめえの事を気に掛けてる事は分かるぜ。叔父御の噂を聞いて盃を貰いに来る奴ア多いが、叔父御はみんな追い返してるんだ。三下奴にもしねえ」 「俺も断られました」 「たとえ断られても、三ケ月近くもそばにいりゃア、回りの者は子分になったと思うもんだぜ。とにかく、兄弟分になったんだ。頑張ってくれなきゃ困るぜ。俺は武州をものにするからよお、上州の事はおめえに任せたぜ」 万次郎の弟分になった事により、忠次はすっかり渡世人になった気分でいた。剣術の道場主になる事などすっかり忘れ、上州に帰ったら、必ず、親分になってやると思い、万次郎のやる事なす事、すべてを手本にするため、常にそばにいた。特に万次郎が子分たちに自分の事を親分と呼ばせずに、旦那と呼ばせているのは忠次も気に入り、一家を張ったら、真似しようと密かに思っていた。 万次郎の子分とも仲良くなり、居心地がいいので月日の経つのは早かった。 いつしか、桜の花も散り、暑い夏も去り、樹木が色づき始めた頃、栄五郎が高萩にやって来た。挨拶の後、忠次は改めて栄五郎に呼ばれた。 「おめえ、本気で博奕打ちになるつもりなのかい?」 栄五郎は忠次の格好を眺めながら聞いた。 すっかり、遊び人の格好が板に付いていた。 忠次は栄五郎の強い視線から目をそらさずにうなづいた。 「どうしょうもねえ野郎だな、おめえも。もっとも、俺も人の事をとやかく言えた義理じゃねえがな」 栄五郎は苦笑した。 「親分、俺を子分にしてくだせえ」 「いや、俺は旅の途中だ。子分を持つつもりはねえ。大前田一家の盃が欲しかったら、兄貴んとこに行く事だ。だがな、三下奴からやり直しだぞ。万次の兄弟分が三下奴をやるわけにも行くめえ」 「へい、そんな事をしたら、兄貴に恥をかかせる事になります」 「うむ。とりあえず、国定村に帰って、よく考える事だ」 「えっ、帰れるんですか?」 「ああ。玉村の親分からの知らせが届いた。すべてはうまく行き、いつ、戻って来ても大丈夫だそうだ」 「本当ですか?」 栄五郎はうなづいた。 「おめえが国越えしてから、ようやく一年だ。こんなにも早く帰れるなんて驚きだぜ。玉村の親分の話によるとおめえの親父さんは徳のあったお人だったらしいな。親父さんのお陰で、みんながおめえの事を必死になって助けたんだ。親父さんに感謝して、もう一度、将来の事をよーく考えろ」 「へい‥‥‥」 栄五郎は忠次の顔色を見て笑った。 「もう、堅気にゃア戻れねえようだな。 「へい、知ってますが‥‥‥」 「そこで俺の兄弟分で紋次ってえのが一家を張っている」 「噂は聞いてます」 「そうか。奴とは若え頃、一緒に旅をした事があってな、なかなか、いい奴だ。親分としての貫録も出で来たしな。どうだ、そこで修行してみるか?」 「親分の兄弟分なんですか?」 「そうだ。俺が紹介状を書いてやる。三下修行なしで子分になれるようにな。そっから先はおめえの腕 「はい、ありがとうございます」 忠次は世話になった万次郎たちに別れを告げ、一年振りに故郷に向かった。 赤城山の姿が懐かしかった。 冷たいからっ風が顔を刺したが、忠次の心の中は希望で燃えていた。
|
高萩村
1.国定忠次の年表 2.『群馬県遊民史』より 3.『上州路』より 4.『東村誌』より 5.『大前田栄五郎の生涯』より 6.お鶴・お町・お徳・お篠・お貞の略歴 7.百々村の紋次の略歴 8.大前田栄五郎の略歴 9.日光の円蔵の略歴 10.島村の伊三郎の略歴 11.三ツ木の文蔵・国定の清次郎・五目牛の千代松の略歴 12.木崎宿の左三郎・木島の助次郎・三室の勘助の略歴 13.『やくざの生活』」より 14.『日本侠客100選』より 15.「侠客国定忠次一代記」のあらすじ、主要登場人物、忠次の生きた時代背景