六月二十七日
朝から浅間山が唸り続けていた。 二日前にひょっこり現れた紀州熊野の 市太はすっかり、おろくに夢中になっていた。自分ちの畑仕事などした事もないくせに、おろくんちの畑仕事に精出している。おろくの父親は、そんな事をしなくもいいと恐縮しているが、まだ、ろくに歩けないのだからしょうがない。松五郎は銭を稼ぐために馬方をしているし、甚太夫や三治では畑仕事はできない。おろく一人ではとても手に負えなかった。せっかく、小石をどけたのに、放ったらかしじゃア勿体ねえ、俺がやるしかねえじゃねえかと張り切っている。 朝早くから夜遅くまで、おろくの所に入り浸りで、家に帰るのは寝る時だけ。まるで、おろくの おろくの作った夕飯を当然のように囲炉裏端に座り込んで、おろくの家族と一緒に食べる。父親は 夕飯が済むとおろくを誘って芝居の稽古。時には三治を連れて松五郎も付いて来る。甚太夫も義太夫の稽古のない日は顔を出す。芝居の稽古のない日は観音堂へ行ったり、市太の家の土蔵の中にしけこんだり、とにかく、二人だけの時を持つ。今日は芝居の稽古があり、仲よく寄り添って諏訪の森へと出掛けて行った。 永泉坊の祈祷が効いたのか、日暮れと共に浅間山の唸りはなりをひそめた。灰や小石が振って来る事もなく、村人たちは一安心して諏訪の森へと集まって来た。 舞台の前に仲間に囲まれて惣八がいた。少しやつれた顔をして、市太を見ると照れ臭そうに笑った。 「やっと、 「よかったなア。こっぴどく、やられたようだな」 「それ程でもねえが、まいったぜ」 「とにかく、よかった。だけどよお、 「しょうがねえや」 「まあ、俺の権太を見ててくれ。そして、今晩は飲もうぜ。大丈夫なんだんべ」 「ああ、平気さ。昼間、真面目に稼業に精出したからな」 「そうか。話す事が 稽古が終わると市太たちはゾロゾロと巴屋へと向かった。途中、市太は惣八を誘って、みんなから離れて話を聞いた。 「おまんの事だけどよ、先生から聞いたぜ」 そう言うと惣八はニヤッと笑った。 「ああ、うまく行ってたんだ。言おうと思ったんだけどよ、何か、言いづらくてな。それでも誰かに言いたくて、たまたま先生に会ったんで、内緒にしてくれって言っちまったんだ。村の者が誰も知らねえとこを見ると、先生はほんとに内緒にしてくれたらしいな」 「俺だけだんべ。知ってんのは」 「今、思えば、先生から村の者に伝わって、噂になってくれりゃアいいと思ったのかもしれねえ」 「本気で惚れちまったのか」 惣八は立ち止まって、遠くの方を見つめながらうなづいた。 「八兵衛の留守に、愚痴を聞かされてなア、八兵衛なんかにゃ勿体ねえ、俺が幸せにしてやるってな、本気になっちまった」 惣八は市太の顔を見て苦笑すると歩き出した。 「元の 「ああ、聞いたよ」 「どうすんでえ」 「もう、どうするもこうするもねえよ」 「おなべはまだ一人だぜ」 「おなべか‥‥‥いい娘だけどな」 「おまんのがいいのか」 「忘れられねえんだ。土蔵ん中で、おまんの事ばかり考えてた」 「そうか‥‥‥例の賭けだけどよう、ありゃアもうやめだぜ」 「ああ、念仏講なんてとんでもねえや。それで、おめえの方は 「そうじゃねえよ」 「村の者はみんな言ってるぜ。 「へっ、言いてえ奴にゃア言わしておくさ」 「それじゃア、やっぱり、江戸に行くのか」 「当たり 「おろくは、それまでの遊びってわけか」 「そんなの決まってべえ」と市太はつい勢いで言ってしまった。惣八のように本心を告げる事はできなかった。「勘治は 「そうか、そうだんべなア。俺アもうしばらくは親の機嫌を取らなくちゃアならねえ」 「わかってるよ。俺はアホの三治をからかって遊んでらア」 「アホの三治か。ガキの頃、よくからかって遊んだっけ。あそこんちの親父、鬼のような面して追っかけて来やがった。おめえ、あの親父、大丈夫なのか」 「ああ、今は怪我してるからな、追っかけて来る事もできねえ。まあ、いつも、 巴屋の前で、おろくが待っていた。 「おろくの奴、やけに色っぽくなったんじゃねえのか」と惣八が肘で市太を突く。 「長え事、蔵ん中にいたから、そう見えるんだんべ」 「そうかもしれねえ。娘たちがみんな、可愛く見えるぜ」 惣八が店に入ると、おめでとうとみんなが迎え、蔵出し祝いの宴が始まった。 「ねえ、おなべを呼んで来ようか」とおかよが気を利かす。 「いいよ。どうせ、怒ってんだんべ」 「そんな事ないみたいよ」 「でもよう、おなべは今、義太夫の稽古に忙しいんじゃねえのか」と幸助が言う。 「そうか。 「おなつとおきよの二人が競うんじゃなかったのか」と惣八が聞く。 「そうだったんだけど、あんたが閉じ込められちゃってから、おなべもやる気になってね、おなつと毎日、お稽古に励んでるのよ」 「そうか。でも、おなべは無理だんべえ」 「あたし、三人共、聞いてみたけど、五分五分ってとこじゃない」 「ほんとかよ」と幸助が驚いた顔をする。「おきよが一番だと思うけどな」 「おめえにゃア、何でも、おきよが一番さ」 安治に冷やかされて、幸助はむきになる。 「そうじゃねえよ。前評判はそうだったんべ」 「前評判はね。でも、おなべもおなつもほんとに真剣にやってるの。当日になってみなけりゃわかんないわね」 「ほんとかよ。そいつはやべえな。おきよの奴、もう自分だと思って安心してやがる」 「もし、おきよが選ばれなかったら、あんたのせいかもね」 「そうだぜ。おめえがちょっかい出したから、おきよの腕が鈍ったんだ」 「そんな‥‥‥」 「ねえ、若旦那、おなつの事だけどね、もう、はっきりと別れたんでしょ」 おかよが急に言い出し、市太はまごついて、おろくを気にする。 「おめえ、なに言ってんでえ、今更」 「いえね、おろくさんのためにもはっきりしといた方がいいと思ってね」 「そんなの、もうとっくに別れてらア。顔を合わせたって口もきいちゃアいねえよ」 「実はね、うちの兄貴がさ、どうも、おなつの事、好きみたいなんだよ」 「なに、長治がか」 「そう。でも、若旦那がおっかなくって、おなつに声も掛けられないのさ」 「なに言ってやんでえ。長治がおなつとどうにかなったって、俺が怒る筋アねえ。好きにしろい」 「兄貴に言っとくわ。まあ、うまく行くかどうかはわからないけどね」 「長治とおなつか‥‥‥難しいかもしれねえな」と安治がもっともらしい顔で言う。 「安とおさやはどうなんでえ」と勘治が二人を見て笑う。 「俺たちは‥‥‥」と安治はおさやを見ながら口ごもる。 「おさやは安治さんの事、好きなんですよ」とおみやが口を出す。 「おみやったら、なに、そんな事、言うのよ」 おさやは顔を赤らめて、おみやをぶつ真似をする。 「だって、本当じゃない。見てられないのよ。あたしはちゃんと言ったのよ。仙さんに好きだって」 「いよおっ、仙の字」 みんながキャーキャー囃し立てる。仙之助は真っ赤な顔して照れている。 「みんな、いいのね、好きな人が側にいて」おかよが溜め息をつく。 「兄貴はまだ、江戸に着かねえだんべなア」 「おかよ、俺だって側にいねえんだぜ」と勘治が言うと、 「おめえ、おゆうに会いに行ってるのか」と惣八が聞く。 「ああ、行ってるよ。十日に一度ぐれえしか行けねえけどな」 「一緒になるつもりなのかい」 「当たり 「実は俺もそいつで悩んでんだ」と幸助が勘治を見る。「おきよの親父は組頭だからな、どうも、身分違えらしい」 「そんなの、くそくらえって言ったんべ」 「だってよう、うちはもう二親共いねえし、おきよの両親に断られりゃアそれまでだ」 「馬鹿野郎、そんな情けねえ事でどうする。大人たちと戦って、うまくやるんだよ」 「そう言ってもなア、俺にゃア自信がねえ」 「しっかりしなさいよ、もう。こうやって見れば、若旦那とおろくさんだって身分違いじゃない。安治さんとおさやだって、仙さんとおみやだって、みんな、そうじゃないさ」 おかよに言われて、皆、初めて気づいたように回りを見回す。 「そう言われてみりゃア、みんな、身分違えだ。どうなっちまったんでえ」 「誰かが誰かを好きになるのに身分なんて関係ないのさ。そんな古いしきたりなんか、あたしたちでぶち壊してやろうじゃない」 「おう、そいつアいいぞ」と勘治は張り切る。「でも、俺たちだけでやってもダメだ。若衆組を動かせりゃアいいんだが」 「そいつは難しいぜ」と市太は言う。「すでに 「まずは市太、おめえたちだんべ」 「勘治、何を言ってるんでえ」 「問屋の伜のおめえが最初に 「掟破りか、破るのは好きだけどよう」 「おめえたちが見本を見せりゃアいい。そうすりゃア、幸助とおきよも一緒になれるし、安とおさやも、仙とおみやも一緒になれるってえもんだ。勿論、俺アおゆうと一緒になる」 その夜、市太たちは村の身分差をなくすという事を熱くなって語り合った。
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鎌原村大変日記の創作ノート
1主要登場人物 2追分宿の図 3鎌原村の図 4江戸の図 5吉原の図 6年表 7浅間山噴火史 8浅間山噴火史料集 9群馬県史 10軽井沢三宿と食売女 11田沼意次の時代 12平賀源内 13歌舞伎役者 14狂言作者と脚本 15鎌原村の出来事 16鎌原村の家族構成