2 惚れた女に振られちまったよ
裾野の長い赤城山の手前には広々とした平野が広がっている。しかし、この辺りはまだ山続きのように松林や雑木林が連なり、耕地は少なかった。その少ない耕地のほとんどが 若者の後ろの松林の中では 一勝負着いたらしく、「畜生め、やられたぜ。今日はついてねえや」とブツブツ言いながら、二人の若者が帰って行った。 「おーい、また、来いよ」 勝った者が銭を数えながら叫んだ。 「へっ、いいカモだぜ、まったく。一 「まア、そんなとこだんべえ」 「おい、忠次、おめえよお、まだ、お町の事を思ってんのか?」 腕まくりをした若者がサイコロの入った 壷の中のサイコロの目を見つめていた四人の若者が一斉に、忠次と呼ばれた若者を見ながら笑った。皆、腰に木刀を差し、遊び人という格好だった。 「確かに、お町はいい 「うるせえ!」 忠次は背中を向けたまま、大声で怒鳴った。 「よお、国定の忠次が 「どんなもこんなもねえ、馬鹿な奴だぜ。花嫁行列ん中に飛び込んで行ってよお、花嫁をかっさらおうと 「うるせえ、黙りやがれ!」 忠次は起き上がると振り向いた。 「おい、 「どっちだって、嫌われた事にゃア変わりあるめえが」 「それがよお、怒った時の顔がまた、たまんねえんだ。ほんとに、ありゃ、いい女子だぜ」 「おめえなア、まだ、お町に未練があんのか?」 「何を言いやがる。 木刀を抱え込んで座り込むと忠次は五人の顔を眺め回した。 国定村の清五郎、五目牛村の千代松、 当時、上州は剣術が盛んで、あちこちに道場があり、村の若者たちが修行に励んでいた。 剣術も盛んだったが 「へっ、何が大事な事なんでえ?」 清五郎がニヤニヤしながら、二の腕をボリボリとかいた。 「俺の親父はよお、俺が十歳の時に死んじまったが、本間念流の免許を持ってたんだ。親父の夢は道場を開いて、国定の若え 「その話は俺も親父からよく聞くでえ。親父は酔っ払っちゃア、おめえの親父の事を自慢気に話すんだ。 「おう。俺もよお、ようやく、親父の事が少し分かって来てな、親父にゃア負けられねえと思ったんだよ」 「まあ、おめえんちは名主をやった事もある家柄だからな、おめえ 「 釣られるように次郎と又八も笑った。 「誰が名主んなると言ったんでえ。俺は道場主になるんだ。免許を取ってよお、国定に剣術道場を開くんだ」 「言っちゃア 「おめえんちは銭もあるし、土地もあっから、道場なんか簡単に作れるだんべえ。だがな、免許を取るのは難しいぜ。はっきり言って、おめえの腕は俺以下だ」 「今んとこはな。俺は心を入れ 「お町に振られて、心を入れ替えたんか?」 清五郎は一から六までの数字が書かれた紙切れの上の銭をかき集めて、勝った者に分け与えた。 「馬鹿野郎、お町は関係ねえ」 「お町さんは 「偉え先生ってのは何の先生だい?」 千代松も銭を数えながら、忠次の顔を見た。 「何でもよお、 「へえ、学者さんかい。それじゃア、忠次がかなうわけねえや」 富五郎が大笑いした。 「うるせえ。学者が何だってえんでえ」 「おめえ、お町の相手が五惇堂の先生だから、道場の先生になるべえって決心したんじゃねえのか? まったく、単純な野郎だぜ」 「うるせえやい。お町は関係ねえって言ってんだろうが。しまいにゃ本気で怒るぜ」 「忠次よお、おめえ、お町とやったんか?」 千代松が細い目を見開いて聞いた。 「それが、いい所までは行ったんだ」 忠次は赤城山を眺めながら、独りニヤニヤした。 「お町のおっぱいをなめたんか?」と富五郎が舌を出しながら、忠次の横腹をつっ突いた。 「うるせえ。いいか、去年の秋祭りん時だ、俺はお町の 「おめえのいつもの手じゃねえか。お町にゃア通じなかったってえわけかい?」 「うまく行ったのよ。あら、やだって顔を赤らめてな、俺はお町を誘って早川のほとりまで行ってよお、月を眺めながら、いい感じで話をしたんだ」 「へっ、おめえが月を見ながら話だと? 笑わすねえ。お町を押し倒して逃げられたんだんべえ」 「馬鹿野郎、おめえとは違うわ。いい感じだったんでえ。お町もちっと酒が 「へっ、信じられねえ」 富五郎が首を振ると、 「そんな事、信じられるけえ、なあ」と千代松も又八に言った。 「お町は特別なんだ。俺はお町を嫁に貰う気でいたんだ。ところが邪魔が 「それで恥をかいたってわけか、情けねえのう。何が特別な女子だ。女子なんてよお、強引に一発やっちまえば、それでいいのよ」 「嘉藤太の野郎さえいなかったら、うまく行ってたんでえ、くそったれが」 「その嘉藤太だがよ、 「なに、兄貴が一家を張んのか?」 富五郎が目を輝かせて清五郎を見た。 「ああ、近々、張るらしい。嘉藤太が一の子分になるって噂だぜ」 「あのくそったれ野郎が一の子分になんのか」 忠次が顔をしかめた。 「らしいぜ。俺もよお、兄貴の子分になるべえかと考えてんだ」 「何だと? おめえが嘉藤太の 「まあ、そういう事になるな」 「やめとけ、やめとけ。奴は汚ねえ。あんな野郎と兄弟分になったら、後で泣きを見るぜ」 「おめえは嘉藤太を悪く言うがな、そんなに 「何だと? おい」 忠次は血相を変えて清五郎の胸倉をつかんだ。 「清五、本気で怒るぜ」 清五郎の手から壷が転げ落ちた。 「 忠次は清五郎を睨みながらも、襟から手を離した。 「おめえにゃア分かんねえかも知れねえがよお、妹を持つ兄貴ってえのは、妹が男と付き合うのを邪魔したくなるもんなんだよ」 「おめえもお竹ちゃんに男ができたら邪魔すんのか?」 「するさ。お竹はお町のように 「俺だって、真っ当な堅気だぜ」 「ああ。今のおめえは確かに堅気だ。だがよ、おめえは危険なんだよ。いつ何をしでかすか分かんねえ危険があるんだ。兄貴から見りゃ、そういうとこにゃア嫁にやれねんだよ」 「ふん、くそったれが」 忠次は皆に背を向けると、また寝転がった。 桑畑の上をヒバリが鳴きながら飛び回っていた。霞が流れ、赤城山が全貌を現した。 「おめえも勘助兄貴の子分になんのか?」 千代松が壷とサイコロを拾いながら清五郎に聞いた。 「ああ、そのつもりだ。兄貴は大前田の親分(要吉)の身内だしな。羽振りがいいぜ」 「なあ、おめえと嘉藤太がよお、兄貴の子分になりゃア、国定も田部井も兄貴の縄張りになんのか?」 富五郎が身を乗り出して聞いて来た。 「勿論さ。俺は兄貴の 「ほう、代貸か、いいのう」 富五郎と千代松は顔を見合わせて 又八と次郎も 「だがよお、 忠次が顔を上げると言った。 「久宮の親分と大前田の親分とは敵対関係だって聞くぜ」 「おう、そうさ」と富五郎が得意気に答えた。 「先代の久宮の親分(丈八)を殺したんは大前田の親分の弟さんだぜ。先代の親分はな、東上州一帯を仕切ってた大親分で、しかも、 「そいつを 忠次は興味深そうな顔をして起き上がった。 「そうよ、大前田の栄五郎さんは兄弟分の月田の栄次郎、武井の和太郎と三人で、月田の明神様の祭りの夜、久宮の大親分を殺っちまったのよ。そん時、すげえ雷が落ちたって噂だぜ。大前田一家が今のようにでっかくなったんは、栄五郎さんのお陰なんだ」 富五郎は腕組みをして、皆の顔を眺め回すとうなづいた。 「へえ‥‥‥それで、その栄五郎さんてえのはどうなったんでえ?」 「勿論、国越えしたのよ。八州様の御用聞きを殺しちまったんだからな、当然、大手配になってよお、旅から旅へと渡り歩いてんだ。旅に出てから、もう八年にもなんのに故郷に 「八年もか‥‥‥」 「兄貴の話によると、もう帰って来ても 「久宮一家の奴らは未だに栄五郎さんの命を狙ってるし、要吉親分に迷惑が掛かるんで帰って来なかったらしい。ところが去年、江戸で無宿狩りに会って捕まっちまったんだ」 「なに、栄五郎さんが捕まった?」 富五郎は驚いて、清五郎を見つめた。 「ああ、兄貴が江戸の 「栄五郎さんが佐渡送りか‥‥‥つれえだんべえなア」 「まさしく、この世の地獄だそうだぜ。一日中、暗え穴ん中で水汲みをさせられるんだ。休む事も許されねえでな。十年間、まじめに働きゃ帰る事もできるらしいが、ほとんどの者が十年経つ 「こ、殺されんのか?」と千代松が口をとがらせながら聞いた。 「そうじゃねえ。事故やら病気やらで死んじまうのさ」 「栄五郎さんも死んじまうんか‥‥‥」と富五郎はボーッとしながら、自分の耳たぶを引っ張った。 清五郎は首を振った。 「兄貴が言うにはな、親分さんが絶対に島から出してやるって言ってたと。何でも、栄五郎さんは 「ふーん、大前田の栄五郎さんか‥‥‥」 忠次は赤城山麓の大前田村の辺りを眺めた。視線を戻して富五郎を見ると、「それで、久宮一家の方はどうなったんでえ?」と聞いた。 「 「しかし、今んとこは国定と田部井は久宮一家の縄張りなんだんべえ?」 「曲沢もな」 「だがよお」と清五郎が首を出した。 「今の久宮一家にゃア、大前田の息の掛かった兄貴に手出しするような度胸はねえぜ」 「成程な」と忠次はうなづいた。 「話は変わるがよ、島村の親分(伊三郎)はどうなんでえ? かなり、羽振りがいいって噂だぜ」 「ああ、島村の親分はいいシマ(縄張り)を持ってるからな。利根川筋の 「へえ、おめえは詳しいな」 「兄貴から聞いたのよ。何と言っても、これからは大前田一家の身内になんのが一番だぜ。しかしな、大前田の親分から子分の 「ほう、三下修行がねえんか。そいつは確かにいい。俺も兄貴の身内になるかのう」 富五郎もすっかり、乗り気になっていた。 「早え者勝ちだぜ。千代松、おめえもどうでえ? どうせ、短え一生だ。面白可笑しく生きた方が得だぜ」 「うん、確かに博奕打ちはカッコいいし、銭回りもいいしな。俺もなりてえが、どうも、勘助の兄貴はあまり好きじゃねえな」 「どうしてでえ?」 「何となく、あの顔付きが好かねえ」 「何を言ってるんでえ。男は顔じゃねえぜ」 「それによ、兄貴の親父は代官所の役人で三室村の名主だ。噂ではかなりの 「そんな事アねえ。兄貴ならやるさ」 清五郎は自信たっぷりに言った。 「おい、忠次、おめえも道場主なんかやめてよお、博奕打ちになれよ。お町なんか目じゃねえぜ。綺麗所の姉ちゃんを 「親父が生きてりゃア、俺だって博奕打ちになったさ。だがよ、お袋一人に苦労させるわけにゃアいかねんだよ」 「まあな。今のおめえんちはお袋さんで持ってるようなもんだからな。つれえとこだよな」 「忠次の兄貴、俺が強くなったら、兄貴の道場の師範にしておくれよ」 又八がニコニコしながら言った。 「おう、いいとも。おめえも次郎も強くなって師範になれよ」 忠次は立ち上がると念流独特の下段に木刀を構えた。 「赤城のお山もとくとじっくり、見ていてくんねえ」 芝居じみた 「なに、大 千代松がゲラゲラと笑った。 大戸の
その年の秋、十六歳の忠次は今井村の旧家から、二つ年上のお鶴という嫁を貰った。 当時としては早い結婚だったが、それは家庭の事情によった。忠次の父親は六年前に亡くなり、祖父と祖母はそれ以前に亡くなっている。母親が一人で家庭を支えていたのだった。 忠次の家は国定村でも裕福な部類に入る農家だった。長岡という姓を持ち、名主を務めた事もある名家だった。国定村だけでなく、隣村の 家にも寄り付かず、遊び歩いてばかりいた忠次が心を入れ替え、父親の意志を継いで、剣術道場をやりたいと言い出すと母親は喜び、さっそく、縁談をまとめた。母親にしても嫁が来るというのは働き手が増えるので喜ばしい事だった。 お鶴はお町のような華やかさはないが、清楚で、しとやかな美人だった。忠次はお町の事などすっかり忘れて、お鶴に夢中になった。 「ねえ、忠次さん、早く強くなって、道場の先生になって下さいね。本間先生のように偉くなって下さい」 優しい笑顔をたたえながら、お鶴からそう言われると忠次は任せておけと胸をたたき、一心に剣術の修行に励んだ。また、時には叔父の源左衛門と一緒に市場に行って、絹織物の取り引きなどもした。 以前、一緒に遊び歩いていた清五郎、千代松、富五郎らは忠次の変わり様を信じられない事のように眺めていた。
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国定村
1.国定忠次の年表 2.『群馬県遊民史』より 3.『上州路』より 4.『東村誌』より 5.『大前田栄五郎の生涯』より 6.お鶴・お町・お徳・お篠・お貞の略歴 7.百々村の紋次の略歴 8.大前田栄五郎の略歴 9.日光の円蔵の略歴 10.島村の伊三郎の略歴 11.三ツ木の文蔵・国定の清次郎・五目牛の千代松の略歴 12.木崎宿の左三郎・木島の助次郎・三室の勘助の略歴 13.『やくざの生活』」より 14.『日本侠客100選』より 15.「侠客国定忠次一代記」のあらすじ、主要登場人物、忠次の生きた時代背景